常陸国那賀国造の祖・建借馬命と印波国造伊都許利命を関連付ける文献は、多氏の系図のみです。他は、考古学的遺物により、茨城県東南部と千葉県北部が同じ文化圏であったことが伺える事が、系図を裏付けることになる…といったところでしょうか?

しかし、風土記の記事を精査し、印波の麻賀多神社の由緒に記載されていることやその他の資料などを合わせて考えると、見えなかった事が見えてくる気がします。その手掛かりになる事項を、まず列挙してみようと思います。

風土記からわかる、建借馬命の通ったルート。

麻賀多神社縁起からわかる、当時の印旛沼周辺の水運ルート。

風土記の鳥見の丘の記述からわかる水運の拠点と上陸地点。

拠点となる地域の国造の系統。

 

西から東へ至るルートを考える時、重要となるのがヤマトタケルの伝承です。彼のたどった道が即ち古代の通行ルートであり、この1人の英雄は、全国へ平定開拓のために派遣された者達の集約された姿でしょう。とりわけ東国にはヤマトタケルの伝説が多く、常陸国風土記では倭武天皇と表現されて頻出しています。

記紀の神話だけ読むと、古事記と日本書紀では多少違いがあるものの、大体のルートを思い浮かべることが出来ます。往路は、伊勢を出立し東海道を進み、走水から上総に上陸。その後、常陸を経て東北へ向かっています。そして上総に上陸してからのルートが問題なのですが、そこから陸路または東京湾の海岸線づたいに北上するもの、逆に南房の海岸づたいに太平洋まわりで北上し、香取と鹿島に挟まれた現利根川の河口から遡ったどこかの地点で上陸するもの。このような二通りのどちらかで説明されることになりますが、常陸方面に行くのにわざわざ外海に出るのは実際的と思えません。実際、利根川河口の先の太平洋は黒潮と親潮のぶつかるところで、非常な難所となり、果たしてこのようなルートがあったのかとも最近では言われているようです。また、日本書紀には「葦浦を渡る」という記述があり、葦浦は霞ケ浦のこととされているので、太平洋回りのルートでないことが伺えます。しかし、太平洋ルートが想定されたのには理由があります。太平洋側の海浜地域にもヤマトタケルの伝承が多くあるためです。このように、房総半島におけるヤマトタケルの神出鬼没ぶりだけを見ても、彼の伝承が複数の人物の複合であるのがわかります。

さて、このヤマトタケルの伝承が、実は多氏の軌跡とかなりの部分重なっているのです。これは、谷川健一氏も著作で指摘されています。ヤマトタケルが、長きに渡って繰り返しやって来た征討者の集約された姿であることと、とりわけ多氏族の軌跡とリンクしているという理由から、建借馬命の通った道筋を考える時の参考として不都合は無いと考えます。

 

これを踏まえた上で①を考えてみたいと思います。建借馬命についても、文献によって「太平洋を北上し…」とされているものが見られますが、本当にそうでしょうか?風土記の記述をよく見ると、彼が太平洋側ではなく内陸を通っているのは一目瞭然です。なぜなら、霞ケ浦に浮かぶ浮島で神事を行い、潮来へ渡っているからです。太平洋側から入った場合、この順序にはなりません。(浮島は、現在は浦に突き出た半島ですが、古代は文字通り島でした。因みに、夥しい数の祭祀遺物が出土しているそうです。また、風土記の記述でも島には九つの社があり、人々は言動を慎み禁忌に触れないように暮らしていたとあり、特別な場所だったことがわかります。おそらく浦を渡るに際しては、必ず立ち寄り神に祈りを捧げた場所なのでしょう。)

それでは、浮島へ至るまでのルートはどうだったのでしょうか?

おそらく、前述のヤマトタケルの道に従い、東海道を通り、浦賀水道を渡って房総半島の富津辺りに上陸したと思われます。そこから陸路で北上または、水路で湾を北上することになります。その地域に分布するヤマトタケルの伝承を拾ってみることにします。といっても、本当にいたるところに伝承がありやみくもに抽出すると煩雑になります。今問題にしているのは、この地点から浮島へ至るルートなので、主に半島の西側の伝承を見てみます。弟橘姫伝承で有名な木更津はもとより、市原の姉ヶ崎袖ケ浦市習志野市の袖ケ浦船橋の意富比神社とその元宮入日神社成田市麻賀多神社吾妻神社。また、白井市にも伝承があります。そして、栄町矢口一宮では、ヤマトタケルが祭神の一柱ともなっています。

富津から湾の縁に沿って北上し、船橋に至り、印旛沼を通って利根川(古代には香取の海)へ出て、浮島へ渡るというルートが見えてきます。富津から船橋への方法としては、海岸線づたいに船で移動したと想定しています。

 

船橋市周辺

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浮島周辺

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 では、ここで最も問題にしたい印波国周辺の足跡を、もう一歩詳らかに出来ないでしょうか?それが、麻賀多神社の縁起(1765年に書かれたもの)に記載されたヤマトタケルの記事からかなり具体的なルートがわかります。その部分を抜き出して要約してみます。➡命の率いる船団がいよいよこの浦に入って来たが、その数の多いことと言ったら…。はるか遠くまで船で埋め尽くされてしまったので、「ああ、船の尾があんなに長いことよ!」と命がおっしゃった。

この浦とは、かつては香取の海一部だった印旛沼の麻賀多神社の下に広がる地点を表すと考えます。そして、船団の最後尾の件が、“船尾”の地名起源になっていると『印旛郡誌』にありますので、その地点が印西市の船尾であることがわかります。(ただし、古代において“船尾”は“船穂”と表記されていました。江戸時代に書かれたこの文献は、後世の表記を元に地名起源の話を作っていると思われますが、船を利用した移動ルートは、古代も江戸時代もさして変わっていないと思われます。長らく変わらなかったものが、近代に入り急速に変わっていったのです。この場合の船の最後尾がどこになるかの認識は、古代にも当てはまるものだと思います。)

さて印西市船尾は、現在の西印旛沼から東京湾に向かって伸びている新川の北側の地域です。この水域は、今でこそ川ですが、古代にはもっと広く、現西印旛沼と一体となって、北総における香取の海の西の端となっていたことが予想できます。即ち、湾の海岸づたいに移動して船橋辺りで上陸して陸路で北上した一行は、ここで再び船を用立てて、水路をとったのではないかと思います。そして、その様な場所には、必ず土地の有力者がいたはずです。その痕跡はあるのでしょうか?それが、ありました。船尾の対岸は、八千代市神野ですが、そこに印波国造ゆかりの麻賀多神社が存在します。現在は、こじんまりとした小社ですが、この地域性から考えて、かつては交通の要衝の重要な社だったと推測します。その状況と、縁起の内容が符合することから、これを古代の移動の一般ルートと見て差し支えないのではないでしょうか

ここに、前述のルートの印旛沼周辺の状況が、具体的に付け加えられました。

 

富津から浜つたいに船で移動 → 船橋に上陸 → 陸路で北上 → 現在の八千代市神野付近から再び水路をとり浦に沿って東に進み、現在の酒々井町辺りから水域の湾曲に沿って北上。→ 印波国中心部(麻賀多神社周辺)に到着。

 

八千代市神野、印西市船尾付近

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麻賀多神社本宮付近

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麻賀多神社縁起で、ヤマトタケルは印波にしばらく滞在しています。どのような記述があるかと言うと、土地の人々が作物の不出来を嘆いていたので、ヤマトタケルが杉の木に鏡をかけて神祀りをして、その結果実り豊かな土地になったというものです。要するに、彼は新技術や最先端の道具を携えていて、それを土地の民に伝えたということでしょう。当然、その際に神への祈願も行ったでしょうから、それが、神社の起源となりました。また、乗ってきた船を埋めたので、船の形の丘が出来、それは船塚と呼ばれたとあります。成田市に、ある意味著名な「船塚古墳」がありますので、これは明らかに、ここから発した話です。船塚古墳は、確かに船を伏せたような形をしています。周辺の「船形」などの地名もここから出ていると思われ、この古墳が江戸時代から船を意識した名前で呼ばれていたことがわかります。しかし、この「船を埋める」というのは、色々な所で伝えられている話です。土器の埋納など、小さいものなら理解できますが、昔は船などの大きいものも、埋納したのでしょうか?それとも、船のように見える古墳は多いので、それを見て、比較的後世に作られた話なのでしょうか?

ともあれ、ヤマトタケルは、印波で、土地の改良と治水事業をし(治水に関しては、印西市山田の宗像神社の縁起に記載があります)、新たな船を仕立てて、印波国を後にしました。

 麻賀多神社縁起の記載はここまでですが、船出した地点はどこでしょうか?③の風土記の鳥見の丘の記述を見てみたいと思います。

景行天皇が、常陸から下総に渡り、鳥見の丘にて来し方を返り見て、霞が漂う様からそこを霞の里と名付けました。霞の里は、現在の行方市麻生、富田から潮来市永山にかけての地域とされています。永山に「かすみの里公園」があり、富田の養神台園地や麻生の羽黒山公園に鳥見の丘の石碑などが設けられています。地図を見れば、ここが稲敷市浮島のちょうど対岸に当たることがわかります。そして、霞の里に対応する下総の鳥見の丘とは?そこが、船出した場所の候補地となりますが、私はそれを栄町矢口に比定したいと思います。その詳細は、別のページを設けてありますので参考にしてください。こちら

 

ここに、風土記の建借馬命自身に関する記述、及び麻賀多神社縁起のヤマトタケルの記述と風土記の景行天皇の記述を手掛かりに、建借馬命の足跡を辿って見ました。また、この行程の裏付けとなるのは、要所要所の有力者の様相です。いづれも建借馬命の出身氏族である多氏族に関わるのではないかと思われる氏族が名を連ねています。東京湾岸の国造の幾つかは、『国造本紀』では必ずしも始祖を多氏と同じくしませんが、他の資料を合わせると、近しい関係であることがわかります。袖ケ浦には、飽冨神社があり、元々の祭神は多氏の始祖神八井耳命だと言われています。

飽富は、多氏を表す「飫富(おう)」が、後世書き誤られたものです。この近辺は馬来田国造の地域で、麻賀多神社に馬来田郎女を祀る境内社があることから、印波国造との関係も明らかです。印波国造は、言うまでもなく『国造本紀』に神八井耳命の末裔と書かれた多の氏族です。また、船橋の意富比神社も元は多氏の創建である可能性が極めて高い所です。(意富比神社については、別項を設ける予定です。)このように、ルート上に同族が名を連ねることは、まさしくこの道を通ったと思って無理がありません。

 

では、その行程を整理してみたいと思います。

東海道を下り、走水から房総半島へ ➡ 富津から東京湾岸沿いに北上 ➡ 船橋に上陸 ➡ 陸路で北上 ➡ 八千代市神野で再び水路をとる

 ➡ 水域に従って北東方向へ進む ➡ 成田市船形辺りに上陸 ➡ 水路又は陸路で栄町矢口へ ➡ 水路で浮島へ至る。

 

建借馬命は、系図上で印波国造と繋がるのみならず、常陸方面へ赴く途中で印波の地を通ったのです。勿論、ヤマトタケルの逸話は前述のように、複数の、幾度にも渡ってやって来た人々の集約されたものですが、そうならば、印波に立ち寄り土地の改良をし、神社の礎を作ったのが建借馬命その人であったと暫し夢想するのも許されるかもしれません。麻賀多神社縁起では、ヤマトタケルの去ったあと時を経て、印波国造伊都許利命が赴任し、神祀りの再興をしています。また、『国造本紀』では、成務天皇の代に任命されたとされる那賀(仲)国造の二代後の応神天皇の代に印波国造が赴任していることは、建借馬命の二代後として系図に記されている事とも符合しています。

はるか後代の江戸時代に書かれ、他愛ない地名起源説話も含む麻賀多神社縁起ですが、様々な事を考え合わせると、非常に示唆的なものを多く含んでいるのです。

※古代の伝承を扱う場合、果たして古い時代に、東国に国造が存在したのか?伝承された人物の実在性など、様々な問題を含んでいますが、話が伝わると言うことは、何らかのそれに対応する史実、人物、又はその人物に象徴される集団が存在したと思います。実在云々は、また別の方向からの考察になると思いますので、このサイトでは論旨をわかりやすくするために、基本的に国造などの人物は、伝承の通り1人の実在した人物として扱っています。

≪参考文献≫ 「常陸国風土記」 「麻賀多神社縁起」 「成田史談・57号」 『印旛郡誌』 原書房『景行天皇と日本武尊』 谷川建一『青銅の神の足跡』

 

(最終編集日 2017.10月)

 

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印旛沼水路 印西市吉高付近

印旛沼水路 印西市吉高付近