常陸国那賀国造の祖・建借馬命と印波国造伊都許利命を関連付ける文献は、多氏の系図のみです。他は、考古学的遺物により、茨城県東南部と千葉県北部が同じ文化圏であったことが伺える事が、系図を裏付けることになる…といったところでしょうか?
しかし、風土記の記事を精査し、印波の麻賀多神社の由緒に記載されていることやその他の資料などを合わせて考えると、見えなかった事が見えてくる気がします。その手掛かりになる事項を、まず列挙してみようと思います。
①風土記からわかる、建借馬命の通ったルート。
②麻賀多神社縁起からわかる、当時の印旛沼周辺の水運ルート。
③風土記の鳥見の丘の記述からわかる水運の拠点と上陸地点。
④拠点となる地域の国造の系統。
西から東へ至るルートを考える時、重要となるのがヤマトタケルの伝承です。彼のたどった道が即ち古代の通行ルートであり、この1人の英雄は、全国へ平定開拓のために派遣された者達の集約された姿でしょう。とりわけ東国にはヤマトタケルの伝説が多く、常陸国風土記では倭武天皇と表現されて頻出しています。
記紀の神話だけ読むと、古事記と日本書紀では多少違いがあるものの、大体のルートを思い浮かべることが出来ます。往路は、伊勢を出立し東海道を進み、走水から上総に上陸。その後、常陸を経て東北へ向かっています。そして上総に上陸してからのルートが問題なのですが、そこから陸路または東京湾の海岸線づたいに北上するもの、逆に南房の海岸づたいに太平洋まわりで北上し、香取と鹿島に挟まれた現利根川の河口から遡ったどこかの地点で上陸するもの。このような二通りのどちらかで説明されることになりますが、常陸方面に行くのにわざわざ外海に出るのは実際的と思えません。実際、利根川河口の先の太平洋は黒潮と親潮のぶつかるところで、非常な難所となり、果たしてこのようなルートがあったのかとも最近では言われているようです。また、日本書紀には「葦浦を渡る」という記述があり、葦浦は霞ケ浦のこととされているので、太平洋回りのルートでないことが伺えます。しかし、太平洋ルートが想定されたのには理由があります。太平洋側の海浜地域にもヤマトタケルの伝承が多くあるためです。このように、房総半島におけるヤマトタケルの神出鬼没ぶりだけを見ても、彼の伝承が複数の人物の複合であるのがわかります。
さて、このヤマトタケルの伝承が、実は多氏の軌跡とかなりの部分重なっているのです。これは、谷川健一氏も著作で指摘されています。ヤマトタケルが、長きに渡って繰り返しやって来た征討者の集約された姿であることと、とりわけ多氏族の軌跡とリンクしているという理由から、建借馬命の通った道筋を考える時の参考として不都合は無いと考えます。
これを踏まえた上で①を考えてみたいと思います。建借馬命についても、文献によって「太平洋を北上し…」とされているものが見られますが、本当にそうでしょうか?風土記の記述をよく見ると、彼が太平洋側ではなく内陸を通っているのは一目瞭然です。なぜなら、霞ケ浦に浮かぶ浮島で神事を行い、潮来へ渡っているからです。太平洋側から入った場合、この順序にはなりません。(浮島は、現在は浦に突き出た半島ですが、古代は文字通り島でした。因みに、夥しい数の祭祀遺物が出土しているそうです。また、風土記の記述でも島には九つの社があり、人々は言動を慎み禁忌に触れないように暮らしていたとあり、特別な場所だったことがわかります。おそらく浦を渡るに際しては、必ず立ち寄り神に祈りを捧げた場所なのでしょう。)
それでは、浮島へ至るまでのルートはどうだったのでしょうか?
おそらく、前述のヤマトタケルの道に従い、東海道を通り、浦賀水道を渡って房総半島の富津辺りに上陸したと思われます。そこから陸路で北上または、水路で湾を北上することになります。その地域に分布するヤマトタケルの伝承を拾ってみることにします。といっても、本当にいたるところに伝承がありやみくもに抽出すると煩雑になります。今問題にしているのは、この地点から浮島へ至るルートなので、主に半島の西側の伝承を見てみます。弟橘姫伝承で有名な木更津はもとより、市原の姉ヶ崎、袖ケ浦市、習志野市の袖ケ浦、船橋の意富比神社とその元宮入日神社、成田市麻賀多神社と吾妻神社。また、白井市にも伝承があります。そして、栄町矢口一宮では、ヤマトタケルが祭神の一柱ともなっています。
富津から湾の縁に沿って北上し、船橋に至り、印旛沼を通って利根川(古代には香取の海)へ出て、浮島へ渡るというルートが見えてきます。富津から船橋への方法としては、海岸線づたいに船で移動したと想定しています。
船橋市周辺
浮島周辺
では、ここで最も問題にしたい印波国周辺の足跡を、もう一歩詳らかに出来ないでしょうか?それが、麻賀多神社の縁起(1765年に書かれたもの)に記載されたヤマトタケルの記事からかなり具体的なルートがわかります。その部分を抜き出して要約してみます。➡命の率いる船団がいよいよこの浦に入って来たが、その数の多いことと言ったら…。はるか遠くまで船で埋め尽くされてしまったので、「ああ、船の尾があんなに長いことよ!」と命がおっしゃった。
この浦とは、かつては香取の海一部だった印旛沼の麻賀多神社の下に広がる地点を表すと考えます。そして、船団の最後尾の件が、“船尾”の地名起源になっていると『印旛郡誌』にありますので、その地点が印西市の船尾であることがわかります。(ただし、古代において“船尾”は“船穂”と表記されていました。江戸時代に書かれたこの文献は、後世の表記を元に地名起源の話を作っていると思われますが、船を利用した移動ルートは、古代も江戸時代もさして変わっていないと思われます。長らく変わらなかったものが、近代に入り急速に変わっていったのです。この場合の船の最後尾がどこになるかの認識は、古代にも当てはまるものだと思います。)
さて印西市船尾は、現在の西印旛沼から東京湾に向かって伸びている新川の北側の地域です。この水域は、今でこそ川ですが、古代にはもっと広く、現西印旛沼と一体となって、北総における香取の海の西の端となっていたことが予想できます。即ち、湾の海岸づたいに移動して船橋辺りで上陸して陸路で北上した一行は、ここで再び船を用立てて、水路をとったのではないかと思います。そして、その様な場所には、必ず土地の有力者がいたはずです。その痕跡はあるのでしょうか?それが、ありました。船尾の対岸は、八千代市神野ですが、そこに印波国造ゆかりの麻賀多神社が存在します。現在は、こじんまりとした小社ですが、この地域性から考えて、かつては交通の要衝の重要な社だったと推測します。その状況と、縁起の内容が符合することから、これを古代の移動の一般ルートと見て差し支えないのではないでしょうか。
ここに、前述のルートの印旛沼周辺の状況が、具体的に付け加えられました。
富津から浜つたいに船で移動 → 船橋に上陸 → 陸路で北上 → 現在の八千代市神野付近から再び水路をとり浦に沿って東に進み、現在の酒々井町辺りから水域の湾曲に沿って北上。→ 印波国中心部(麻賀多神社周辺)に到着。
八千代市神野、印西市船尾付近
麻賀多神社本宮付近
麻賀多神社縁起で、ヤマトタケルは印波にしばらく滞在しています。どのような記述があるかと言うと、土地の人々が作物の不出来を嘆いていたので、ヤマトタケルが杉の木に鏡をかけて神祀りをして、その結果実り豊かな土地になったというものです。要するに、彼は新技術や最先端の道具を携えていて、それを土地の民に伝えたということでしょう。当然、その際に神への祈願も行ったでしょうから、それが、神社の起源となりました。また、乗ってきた船を埋めたので、船の形の丘が出来、それは船塚と呼ばれたとあります。成田市に、ある意味著名な「船塚古墳」がありますので、これは明らかに、ここから発した話です。船塚古墳は、確かに船を伏せたような形をしています。周辺の「船形」などの地名もここから出ていると思われ、この古墳が江戸時代から船を意識した名前で呼ばれていたことがわかります。しかし、この「船を埋める」というのは、色々な所で伝えられている話です。土器の埋納など、小さいものなら理解できますが、昔は船などの大きいものも、埋納したのでしょうか?それとも、船のように見える古墳は多いので、それを見て、比較的後世に作られた話なのでしょうか?
ともあれ、ヤマトタケルは、印波で、土地の改良と治水事業をし(治水に関しては、印西市山田の宗像神社の縁起に記載があります)、新たな船を仕立てて、印波国を後にしました。
麻賀多神社縁起の記載はここまでですが、船出した地点はどこでしょうか?③の風土記の鳥見の丘の記述を見てみたいと思います。
景行天皇が、常陸から下総に渡り、鳥見の丘にて来し方を返り見て、霞が漂う様からそこを霞の里と名付けました。霞の里は、現在の行方市麻生、富田から潮来市永山にかけての地域とされています。永山に「かすみの里公園」があり、富田の養神台園地や麻生の羽黒山公園に鳥見の丘の石碑などが設けられています。地図を見れば、ここが稲敷市浮島のちょうど対岸に当たることがわかります。そして、霞の里に対応する下総の鳥見の丘とは?そこが、船出した場所の候補地となりますが、私はそれを栄町矢口に比定したいと思います。その詳細は、別のページを設けてありますので参考にしてください。こちら
ここに、風土記の建借馬命自身に関する記述、及び麻賀多神社縁起のヤマトタケルの記述と風土記の景行天皇の記述を手掛かりに、建借馬命の足跡を辿って見ました。また、この行程の裏付けとなるのは、要所要所の有力者の様相です。いづれも建借馬命の出身氏族である多氏族に関わるのではないかと思われる氏族が名を連ねています。東京湾岸の国造の幾つかは、『国造本紀』では必ずしも始祖を多氏と同じくしませんが、他の資料を合わせると、近しい関係であることがわかります。袖ケ浦には、飽冨神社があり、元々の祭神は多氏の始祖神八井耳命だと言われています。
飽富は、多氏を表す「飫富(おう)」が、後世書き誤られたものです。この近辺は馬来田国造の地域で、麻賀多神社に馬来田郎女を祀る境内社があることから、印波国造との関係も明らかです。印波国造は、言うまでもなく『国造本紀』に神八井耳命の末裔と書かれた多の氏族です。また、船橋の意富比神社も元は多氏の創建である可能性が極めて高い所です。(意富比神社については、別項を設ける予定です。)このように、ルート上に同族が名を連ねることは、まさしくこの道を通ったと思って無理がありません。
では、その行程を整理してみたいと思います。
東海道を下り、走水から房総半島へ ➡ 富津から東京湾岸沿いに北上 ➡ 船橋に上陸 ➡ 陸路で北上 ➡ 八千代市神野で再び水路をとる
➡ 水域に従って北東方向へ進む ➡ 成田市船形辺りに上陸 ➡ 水路又は陸路で栄町矢口へ ➡ 水路で浮島へ至る。
建借馬命は、系図上で印波国造と繋がるのみならず、常陸方面へ赴く途中で印波の地を通ったのです。勿論、ヤマトタケルの逸話は前述のように、複数の、幾度にも渡ってやって来た人々の集約されたものですが、そうならば、印波に立ち寄り土地の改良をし、神社の礎を作ったのが建借馬命その人であったと暫し夢想するのも許されるかもしれません。麻賀多神社縁起では、ヤマトタケルの去ったあと時を経て、印波国造伊都許利命が赴任し、神祀りの再興をしています。また、『国造本紀』では、成務天皇の代に任命されたとされる那賀(仲)国造の二代後の応神天皇の代に印波国造が赴任していることは、建借馬命の二代後として系図に記されている事とも符合しています。
はるか後代の江戸時代に書かれ、他愛ない地名起源説話も含む麻賀多神社縁起ですが、様々な事を考え合わせると、非常に示唆的なものを多く含んでいるのです。
※古代の伝承を扱う場合、果たして古い時代に、東国に国造が存在したのか?伝承された人物の実在性など、様々な問題を含んでいますが、話が伝わると言うことは、何らかのそれに対応する史実、人物、又はその人物に象徴される集団が存在したと思います。実在云々は、また別の方向からの考察になると思いますので、このサイトでは論旨をわかりやすくするために、基本的に国造などの人物は、伝承の通り1人の実在した人物として扱っています。
≪参考文献≫ 「常陸国風土記」 「麻賀多神社縁起」 「成田史談・57号」 『印旛郡誌』 原書房『景行天皇と日本武尊』 谷川建一『青銅の神の足跡』
印旛沼水路 印西市吉高付近
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YOKO (日曜日, 04 8月 2024 07:32)
はじめまして。社会人ですが大学のレポートで麻賀多神社を調べており、文献もあまり見当たらず。お話を伺いたくてもどなたに伺ってよいのかわからず探していたところこちらのHPを拝見いたしました。ぜひ、お話を伺わせて頂けないでしょうか?どうぞよろしくお願いいたします。
鷹取信男 (木曜日, 18 4月 2024 20:47)
私は自分のルーツが知りたくて、古代史を調べている老人です。自宅の近くに麻賀多神社があり、その祭神や宮司家の祖・建借馬命にも関心があり、「印波国から」を興味深く拝読させていただいております。病が高じまして「この倭王は誰か」と題する書をまとめました。よろしければ差し上げますので、ご一読していただけましたら幸いです。送付先をお知らせくださいませ。
〒285ー0927 千葉県印旛郡酒々井町酒々井178ー1 鷹取信男
hikona 2 (月曜日, 20 9月 2021 14:18)
市村利彦様
コメントありがとうございました。
長髄彦と饒速日命の関係をはじめ、とにかく謎の多い物部氏です。
また、多氏族とは時代が遡るほど重なって行くのですが、明確に両者の足跡が刻まれている印旛沼周辺は、とても興味深く重要な地域だと思うのです。
ホームページの記述は、出来る限り思いつきを排除し、出典を明確にしたいので、かなりの時間を必要とし、長らく作成が滞っております。
ご了承ください。
載せるべき資料がまだまだあるのですが…
m(_ _)m
市村利彦 (月曜日, 20 9月 2021 12:37)
素直に賛成の意を表します。ナガスネヒコ一族は滅ぼされてはいなかった。ともに、ニギハヤヒ一族とヤマトミワ王朝を経営してきたのですから。ただイワレ一族とは、歴史をともにしたくない何かの事情があったのでしょう。だから、すすんでヤマトを出て、関東方面に新たな新天地を求めたのだと思います。
megane_book様 (火曜日, 19 11月 2019)
多少のお役に立てた事を嬉しく思います。
まず各項目に出来る限り参考文献を載せる様にしていますので参考にしてください。そして、これらの資料はやはり成田市の図書館での閲覧が主体です。
図書館では、二階の資料室が役に立ちました。
ここにある資料は貸し出し不可ですが、申請してコピーすることが出来ます。
最も多く参考にしたのは、『『印旛郡誌』と『千葉県神社名鑑』です。膨大なページ数がありますので、その都度必要箇所を少しずつコピーして使っています。
その他にも、書架には各地域の地誌や、資料館の会報、市の文化財関係の冊子など色々参考になるものが並んでいます。
役立ちそうな物を片っ端から開いてみることです。(ただし資料室は17時までです。要注意!)
また、遺跡に関しては発掘調査の報告書を見ることをお勧めします。
一見すると取っ付きの悪いものですが、余計な情報が無く、地図やまとめの解説などもあるので参考になります。
遺跡名から検索して資料が有れば、情報を印刷して提示すると書庫から出してもらえます。
調査報告書は、佐倉市の「印旛郡市文化財センター」では、展示室の棚にたくさん並んでいて自由に見ることが出来ていいのですが、コピーが面倒でした。二階の事務所に声をかけてお願いしなければなりません。(ただ私はだいぶ長い間行っていないので、その辺改善されていれば良いのですが…。しかしあまり期待できないですねぇ。)
そして、調べがついたら極力現地へ行ってみることです。
地形は昔と今では違っています。昔の地形を想像して現地を見ることは非常に大切です。そうするとその神社、その遺跡がなぜそこにあるのかが手に取るようにわかることがあります。
成田市は大きな古墳群がありながら、一部の関心のある人にしか知られていない感があり、とても残念です。成田の歴史というと、「まず成田山新勝寺の歴史から」的な所があります。新勝寺も重要であり面白いのですが、なにせ存在が大きすぎて他のものが隠れてしまうんですね。
また、大抵の自治体にある歴史資料館というものが成田市にはありません。
新勝寺以前の時代の積み重ねがあってこそ成田山の歴史もますます面白くなると思うので、これも残念なことです。
なので、古い時代のこの地域の事を、細々とでも伝えていきたいと思い活動しています。
少しでも興味を持たれた若い方がいらっしゃるのはとても嬉しいことです。更なる活躍を期待します!
※主に図書館の事を書きましたが、資料館としては、栄町の「風土記の丘」と「風土記の丘資料館」は必見です。また、芝山町の「はにわ博物館」。ここの展示は大変わかりやすくとても良い博物館でした。
ただ、どこも交通の便がよろしくないのが困るところです。
megane_book (月曜日, 18 11月 2019 15:54)
こんにちは。始めまして。突然のコメント失礼いたします。
私は成田市在住の大学生です。現在、大学の自由課題でこの地域の古代史、特に麻賀多神社とイツコリノミコトに関する資料を集めて調べているのですが、資料がほとんどなく困っておりました。その中でこちらのブログの国造に関する考察やフィールドワークの記録など、実際に自分が出かけていく際に大変参考にさせて頂きました。
自分も自由課題は別として、今後もこの地域の古代史についてさらに深めていきたいと考えております。差し支えなければ、ブログ主様が参考にされた書籍や文献、施設などを伺えれば幸いです。よろしくお願いいたします。
遠藤様へ (月曜日, 22 7月 2019 20:29)
こんにちは。
ホームページを読んで頂きありがとうございます。
印旛沼周辺には多数の古墳が存在し、各地域の古墳は精査が出来ていない状態です。
むしろ、こちらが皆様の情報から色々教えていただくような状況であり、捗々しい返答は出来ないのですが、酒々井町の古墳や遺跡についての印象を述べてみたいと思います。
まず、古墳時代中盤の遺構があまり無い地域だという印象があります。
古墳については、石枕が出土したとも言われている上岩橋の大鷲神社古墳が、地域では古い部類のものと思われます。石枕が出ているとすれば、5世紀後半から6世紀半ばくらいでしょうか?
そして次に目を引くのは長方形墳の墨小盛田古墳で、これは時代も相当下った7世紀後半から8世紀初頭と言われています。
中間が思い付かないというのは、やはりその通りの状況のようです。
そしてその中で狐塚古墳は、実は私にはよくわからないのです。
調査書などを調べていないので、情報が少なく、その僅かな情報の中で7世紀後半というのがありました。
しかし、墳形が前方後円墳だと言うのです。
7世紀に入ると関東でも前方後円墳はもう造られなくなり、印旛沼周辺では栄町の浅間山古墳が「最後の前方後円墳」と言われ、7世紀初めには造られていただろうと言われている。
それなのに、何故酒々井の狐塚古墳は前方後円墳でありながら7世紀後半と言われているのか…。
ここでもう分からなくなってしまいました。
もしかすると、もう少し早い築造なのでは?と想像しています。
実は、7世紀初頭と7世紀後半では古墳を考える上で根本的な違いがあります。
何故なら、745年以降は大化の改新により全国的な政治体制が大きく変わったからです。
その意味で、墨小盛田古墳は比較的分かりやすいです。
前方後円墳がとっくに造られなくなった時代の長方形墳。
被葬者はおそらく新体制において主たる地位にあった者です。
それは、必ずしも古来の印波国造に繋がる人物というわけではないと思います。
もし国造の系譜に繋がる人物であっても、それはあくまで新体制下で新たな地位を獲得した者です。
7世紀後半になると、そのような前方後円墳でない方墳が印旛沼周辺の要所要所に見られます。
その最大の物が栄町の岩屋古墳です。
さて、狐塚古墳に話を戻しますが、仮に築造を7世紀初頭とすると、これはやはり国造の一族の物ではないかな?と思います。麻賀多神社のひとつが近くにあることもそれを思わせます。
麻賀多神社とは、ある明確な祭祀的目的を持って各所に配されていると思いますので、その一端を担った国造の一族の可能性があります。
一応、こんなところが酒々井下台周辺のヒントかな?とは思うのですが、何せ精査していないので、思いつきに近く申し訳ありませんm(_ _)m
やはり、調査書を当たって見るべきですね。
最近は忙しいのにかまけて、そういう資料をあまり見ていませんでした。
これを機に、図書館や文化財センターにも久しぶりに足を運ばねばと反省 (u_u)
狐塚古墳や周辺の遺跡の調査書を当たって見ようと思います。
良いきっかけを頂きありがとうございました (^^)
遠藤博之 (月曜日, 22 7月 2019 10:54)
私は印旛郡酒々井町の麻賀多神社下台の近くに住んでいますが、その近くにあった狐塚古墳と印波国造との関係について調べていますがご指導いただければ幸いです。
私が住んでいる酒々井町は200年前の古地図では酒々井町村となっており酒々井町村には麻賀多神社下宿がありますが1kmも離れていない麻賀多神社下台のある下台は徳川氏による天正19年9月の検地帳には「下総国印東庄中台郷御縄打水帳」とあることから当時は中台とよばれていました。また、この地の酒々井町村との隣接部に国道51号線バイパス工事に伴い発掘調査された狐塚古墳(前方後円墳全長39m)がありました。また、酒々井町の馬橋東京電力北総変電所建設にともない発掘調査した馬橋鷲尾余遺跡の報告書に鷲尾余遺跡第1号古墳は下台地の狐塚古墳の配下にあって、小地区を支配した豪族の墓と思われると記載されております。
この狐塚古墳に葬られた豪族はこの小さな下台の郷だけの首長とは考えられず、印波国造との関係ではどのような地位にあったのかを含め疑問が残る次第でございます。
odyssey様へ (金曜日, 19 7月 2019 01:27)
ホームページを読んで頂きありがとうございました。
なにぶん忙しく、最近は作成が進んでいませんで、暫く開いていなかったので、コメントに気付くのが大変遅くなり申し訳ありません m(_ _)m
印西市中根に住んでいらっしゃるとのこと。正に鳥見神社のお膝元ですね。
私も古代史に興味を持ったものの、最初はやはり「邪馬台国はどこか?」的な物や、「欠史八代の天皇は実在か?」などの、一般的に有名な地域のものばかり読んでいました。
しかし、あるきっかけで自分の住んでいる地域の歴史を調べ始めたところ、近畿や出雲に負けず劣らず、とても面白い事が分かったのです。
そして面白い事に、それは結局最初に興味を持った邪馬台国や出雲にも繋がって行きました。
結局、土地も時代も切れ目なくずっと繋がっているものなのですね。
常陸国をはじめ、奈良や九州との繋がりも重要で、それらの項目も書き足して行く予定なのですが、なかなか進んでいないことをお詫び申し上げます (ㆆ_ㆆ)
細々とでも続けて、誰も言わなければ埋もれてしまうであろう歴史の風景を伝えて行きたいと思っていますので、気長によろしくお願い致します (^^ゞ
odyssey (土曜日, 18 5月 2019 12:09)
こんにちは。千葉県印西市中根に住んでおります。鳥見神社の解説、興味深く拝見しました。
先日娘と奈良へ行った折、少し時間が空いたので、何気なく登彌神社におまいりしたところ、
宮司の奥様でしょうか、「どちらから」という雑談から、
「トミ」は「トリミ」に通じるとの事、鳥見神社の話になりました。
私の実家(白井市平塚)も鳥見神社ですし、ご縁があったんですかねえ。
私の中では、歴史といったら、遠い出雲、大和、伊勢の事みたいな感じでしたが、
こちらのサイトを拝見したら、ぐっと近づいた感があります。
何の知識もない私にはだいぶ難しいですが、今後も楽しみに拝見させていただきたいと思います。
hikona 2 (火曜日, 25 12月 2018 22:49)
鴻池 庸子様。
コメントありがとうございました。
私は、今年の秋に纏向遺跡に行き、その時等彌神社にも行って来ました。千葉県の鳥見神社との関係から是非一度は行ってみたい所でした。
鴻池様もこれから巻向の行かれる予定とのこと。また、現在千葉県在住とは奇遇ですね。
鳥見一族に関する貴重な情報をありがとうございました。
鳥見一族は明らかに神武天皇の大和入り以前の大和地方の統治者で、或いは出雲系か?とも思っていましたが、それよりも以前という事なのですね。
また、富士山が見えるというのも興味深い話です。大和政権以前の列島の実態を考えるのにとても参考になります。感謝です。
地元で言い伝えられていることは本当に重要なのですが、現地に行かないとなかなか入手出来ないのが悩みの種です (:_;)
ホームページの作成の方もなかなか進まず、近畿地方は手つかずで恐縮なのですが、ブログやインスタグラムで奈良方面を訪ねた記録も投稿していますので、そちらも見ていただけると嬉しいです。双方ともhikona 2のネームで投稿しています。
ブログタイトルは、『古代史逍遥 dropout』です。
鴻池 庸子 (火曜日, 25 12月 2018 21:05)
はじめまして。奈良県桜井市で育ちました。小学校のとき鳥見山には遠足で行きました。今は千葉に住んでいて、この秋麻賀多神社に行ってきました。
この年末に奈良の友人の案内で巻向遺跡などに行ってきます。
その友人はここに出てくる石木神社の子孫で、天皇家に黙ってずっと守ってきたと言ってました。村井康彦さんによると鳥見一族は出雲系が奈良に入る前から奈良にいたようです。そのおうちにどんな言い伝えがあるか訊いてきます。
鳥見山から富士山が見えると聞いたような気がするのですが、どう考えても低い山なので東の山にさえぎられて富士山は見えないはずです。でも、実家の母もその言い伝えをきいたことがあると言ってました。三重県の鳥見山ですかねえ。
村井さんによると天皇家の下にはいるのがいやだった人たちは大和からでて他に行ったのではないかということですので、鳥見一族は全国あちこちに移住したのかもしれませんね。
hikona 2 (火曜日, 28 8月 2018 23:34)
飯嶋かずみ様へ
はじめまして、このホームページの管理者です。
しばらくホームページを開いておらず、コメントに気が付かず申し訳ありません。再び見ていただければ幸いですが…。
さて、ご質問の武甕槌命と建借馬命との関係ですが、この両者をダイレクトに並べてしまうと、とても分かりづらいことになります。
何故なら、武甕槌神が鹿島神宮の御祭神として文献に現れるのは、中臣氏が鹿島神宮の管理氏族となってからの8世紀以降。比較的新しい時代の事だからです。
『常陸国風土記』には、武甕槌命という神名は、一切出てきません。
常陸国で奉斎されていた神は、「香島大神」でした。
すなわち、鹿島神宮(この名称もおそらく新しいもので、風土記に"大神の社"として出てくるのが、鹿島神宮の前身でしょう。)には「かしまの大神」がお祀りされていたのです。
そして、この「かしま」の語が「たけかしま」から取られているのだという考えがあるのです。
これには賛否両論あると思うのですが、私は賛成派です。
古代に茨城県東南部に移住した建借馬命の一行は、おそらく最新の道具や技術を以て、土地の開拓に当たったことでしょう。
時には、先住の民とのいざこざがあったでしょうが、概ねその高い技術は、土地の生産を躍進させて、人々の生活も向上し、結果的には「神のような人々が恵みをもたらしてくれた。」と受け取られ、時が経つとそれは伝説となり、神としてお祀りする…。
このような事が起こるのではないか?と思います。
実際、常陸国風土記では、降臨した大神はやがて鉄器や武具など、その頃の最新の道具類を人々に与え、再び昇天しました。
これこそ、上記のような史実が神話化したものではないでしょうか?
そして、この地に神の如くそれらの宝物をもたらしたのは、他でもない建借馬命率いる人達だったのです。
さて、大神の社はやがて鹿島神宮となり、御祭神も「香島大神」から「武甕槌神」に名前を変えましたが、私はこれを御祭神のすげ替えとは思っていません。
何故なら、多氏族の者の編纂に成る『古事記』に「建御雷神」の神名があるからです。
「武甕槌神」とは、元々の常陸国の神の奉斎氏族の思惑も考慮して、表向きに美々しく装いを新たにした御神名なのではと考えます。
従って、名前は変わろうとも、坐す神は建借馬命の神格化である「かしまの大神」に他ならないという思いで、私は神宮を参拝しています。
このような事を述べようと思い、「茨城県」の項目を設けましたが、最近作成が滞っておりました。
この返信を下地に、遅々とするともまた書いて行こうと思いますので、今後ともよろしくお願いいたしますm(__)m
飯嶋かずみ (金曜日, 13 7月 2018 10:57)
こんにちは。はじめまして。
突然のコメントで大変恐縮です。全くの勉強不足、見当違いな質問になってしまうのは重々承知ではありますが伺わせてください。武甕槌命と建借馬命の関係性(何らかのつながりはありますか)をご存知でしょうか。なかなか答えを見つけられず、こちらにたどり着きました。私にはまだ難しいですが、このページを一所懸命ポジティブに読ませていただきました。ありがとうございます。
寅 (金曜日, 12 1月 2018 21:02)
返事ありがとうございます。 私もコメント欄とかホームページのいろいろが分りません。
私の勝手な想像では、多氏は御間城姫の父の大彦の流れだと想像し、その祖は磯城県主大目、その祖は北海道~畿内~出雲などの大部族のクナトではないかと自論の想像をするのです。
多氏と関東の関係が分るといいなと思います。
想像ですから返事は考えなくていいです。
寅 (月曜日, 25 12月 2017 22:29)
始めまして、ブログを見てコメントするにクリックしても何も出ないのでこちらに来ました。
広島にも多家神社があります。平安時代には安芸国三社の名神大社であり、速谷神社、厳島神社、多家神社です。
広島に神武天皇が東征の折り阿岐国埃宮(えのみや)を行宮として駐留した場所に多家神社(たけじんじゃ)があります。
多氏は神武系なら九州基盤と思いますが、多氏が勝手に先祖が神武だと言ったのなら、どこが基盤か分りませんよね。私には分りません。
関東はクナト系の地だと私は思いますが、新勢力が畿内から進出してきたから、書き換えられていると私は思います。
私は広島だから関東の雰囲気が分りません。関東の史実が明らかになりますように!