社頭掲示板などから、その他の縁起

麻賀多神社縁起1のページで、1765年に書かれた『延喜式内奥津宮麻賀多神社』の解説をしましたが、縁起や由緒を知る材料は、他にも幾つか存在し、内容も各々相違が見られるようです。しかし、1765年のもののように本文を全部確認する事が難しく、どれがどの文献に載っているのかということまで精査する事が出来なかったことをお断りしておきます。

 書籍や論文に断片的に載ったもの、社頭掲示板の記載を総合すると、次のような1765年のものとは異なる内容が抽出されます。

①1765年の縁起以外に、日本武尊の記載があるものは無い。

②現在の台方本宮(稷山社)は、伊都許利命8世の孫の廣鋤手黒彦が創始したこと。➡1765年の縁起では、稷山社の創建者も伊都許利命となっています。1302年の藤原家清(第29代神主)の手になる短い文書を確認しましたが、そこにも廣鋤手黒彦の名前はありませんでした。しかし、藤原家清の『麻賀多大明神縁起』というものもあり、そちらの方に記載があるのだと思われます。現に家清が書き写したとされる『太田家系図』の廣鋤手黒彦の欄に、「推古天皇16年6月稚産靈尊遷祭稷山との傍注があります。

③祭神については次の数パターンがあります。

A 最初船形社に稚日女命を祀り、後に(台方に)稚産霊命を祀った。B 船形社に稚日女命と稚産霊命を祀り、後に台方に稚産霊命を遷座した。C 船形社に稚日女命、稚産霊命、伊弉諾命、伊弉冉命を祀り、後に台方に稚産霊命を遷座。➡1765年縁起はAのパターン、上記②の系図の傍注には「遷座」とあるので、BかCのパターンが考えられます。

 

平成7年の、神社本庁『全国神社祭祀祭礼総合調査』には、上記内容を総合した形の由緒が掲載されているようです。(ただし、この調査の所蔵されている所は極めて少なく、実物を自ら確認していません。どなたかのインターネットの記事に記載されていたものを参考とさせていただきました。ご了承ください。)

この調査書の由緒では、この他に「神社名の変更が幾度かあり、最終的に真賀多真から真賀多となり、表記もに改めたこと等が記載されています。この一件は、『印旛郡誌』にも記載がありますが、出典の記載はありません。

 

(最終編集日 2017.8月)

 

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