印波国造について

印波国造について書かれた資料は、主に以下のようなものです。

 

古文書

『先代旧事本紀・国造本紀』(平安時代)

・ 麻賀多神社文書ー1302年の神主藤原家清の文書類(『麻賀多大明神縁起』『麻賀多神社宮司太田家系図』等)、 1628年の神主太田家広撰『延喜式内澳津宮麻賀多大明神注記』、1765年に書かれた縁起延喜式内奥津宮麻賀多神社(『印旛郡誌』に全文あり)、1737年の磯部昌言撰文の『伊都許利命顕彰碑』(公津原39号墳墳頂に所在)、印西市平賀、山田の宗像神社由緒書き(下記『印旛郡誌』、『千葉県神社名鑑』に記述あり。) 

※その他、様々な神社に関する文献や、赤松宗旦『利根川図誌』などの紀行文もありますが、大方は上記の記述をもとにして書かれ、本宮と奥宮を混同した誤った記述や、どちらか一社の記述だけのものも多いようです。

 

近代

『印旛郡誌』(大正12年刊行)

『千葉県神社名鑑』(昭和62年刊行)

・麻賀多神社境内説明版及び石碑など 

 

やはり、まず『先代旧事本紀』や麻賀多神社文書を基本として考察するのが良いと思われます。また、『印旛郡誌』は、大正時代の刊行で非常に読みづらいものですが、現在ではあまり取り上げられない事象の記述があり貴重です。勿論歴史関係はより新しい情報が大切なです。近年刊行の市史等は、新しい研究成果も反映している点で有用ですが、民間の小さな伝承の中には記述されないものも多いことと思います。特に、迷信的な部分は省かれてしまうのはさもありなんと思いますが、そういう内容が『印旛郡誌』にはまだ混在しており、実はその中に重要なヒントが隠されている事も多いので、貴重な資料の一つです。(例えば、今ではどういうものか想像がつかない次のような謎の光の記述。印旛沼で見られたという「カワボタル」や、「龍灯」が木に掛かったとかいう話が載っています。)

 また『千葉県神社名鑑』も昭和の刊行ですが、すでに30年前のものとなりました。現在ではかなり状況の変った所も多いと思います。各社のアクセス情報に「国鉄」の文字があることで、それが実感されます。自分の体験では、「社地や境内のどこにも社号が無く、ここに記載がなければそのうち何の社かわからなくなってしまうのではないか」と思われる所があったり、逆に『名鑑』に記載が無い神社が、近年再建されていたということもありました。近年再建の社は『印旛郡誌』には載っており、双方の資料を突き合わせて、その存在を知り消長を推測する事が出来たのです。

初代印波国造伊都許利命や麻賀多神社についても、両資料には興味深い事柄が載っています。それらは、神社が言わば公的に作成した「由緒書き」には載らないものです。一読をお勧めします。

文献から見る伊都許利命事績一覧

○応神天皇の御代に印波国造に任命される。(『先代旧事本紀・国造本紀』)

○印波に着任後、当地の土地が良くないのを憂え、千座山(ちくらやま)に稚日女命及び稚産霊命を奉斎。その甲斐あって、豊穣に恵まれる。

 ※千座山とは、現在麻賀多神社奥宮(船形)の鎮まる地である。伝承及びご祭神については、数バージョンある。例えば、創建について、「船形奥宮を伊都許利命が奉斎し、台方本宮はその数代後の廣鋤手黒彦が奉斎したというもの」と、「両宮とも伊都許利命の奉斎」とするものがある。また、1765年の縁起にのみ日本武尊の記述が見られる。すなわち、伊都許利命赴任の以前に、日本武尊がこの地を通り、不作に悩む人々を見た。そこで尊は千座山に登り、杉の木のうろに鏡をかけて、「この鏡を崇め奉れば作物がよく実るようになるだろう」と言って、この地を後にしたが、天照稚日女命として斎祀ると、本当にその通りとなった。時を経て、伊都許利命の赴任時には再び不作に悩むようになっていたが、昔日の日本武尊の話を聞き及び、社殿を建ててその鏡を斎祀ったところ、実りの良い土地になり田は日に日に拓けたのである。さらにその後の霊夢によって、木の下より七つの玉を掘り出して稚産霊命麻賀多真大神として斎祀り、土地は益々栄えたという。

 船形奥宮のご祭神に関しては、稚日女命のみとするものと、稚日女命と共に伊弉諾命伊弉冉命稚産霊命を祀るというものがある。

※1765年の縁起から言えば、船形奥宮には最初に稚日女命が祀られ、追って稚産霊命も祀られているから、ご祭神は一柱ではないことになります。伊弉諾命と伊弉冉命の出典についてはよくわかりませんでした。 

 

≪参考文献≫ 菱沼勇・梅田義彦著『房総の古社』 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地11 関東』 『印旛郡誌』 『千葉県神社名鑑』 麻賀多神社掲示板 他

 

縁起の記述と自動手記

○1765年の縁起と『印旛郡誌』には、命の少々プライベートな記事もあります。なんと「応神天皇の御代廿余り七年のこと…」という細かい記載まであって、面白いなと思うのですが、ご子息の浦長多津命が病を得た時の話です。そこで昼夜、神前に祈っていると、ある夜夢うつつのうちに何やら書き付けていたのです。これは大神様が自分に書かせて下さったのだとその通りにすると、我が子の病は快癒しました。その内容とは、八方を治める神に年ごと月ごとに参ることでした。この伝承を受けた地元の言い伝えなのか、『印旛郡誌』に次のような記述があります。すなわち、船形村笠松谷津の上に賀多池という池があり。これは、伊都許利命がご子息の病の時に神勅によって作ったもので、池の上に猿田彦賀多眞の大神を祀った…というものです。=原文のままの記述です。

 ☆上記の資料から思うこと☆

麻賀多神社は周知の如く岡本天明氏に神示が降りた場所であり、多くの信奉者がおられることと思います。このような現象は、学術的な立場からは別個のものと扱われ、それは当然ですが、神社や遺跡に頻繁に足を運んでいる自らの感想を述べさせてもらえば、「その地の持つ見えない力というものが存在する」と言わざるを得ません。兼ね合いが難しいですが、その事を考慮に入れての研究の必要を感じます。なぜなら、電子機器などの無い時代、人類の感覚は現代よりもずっと研ぎ澄まされていたのではないかと思うのです。人間の感覚には適用範囲が決まっています。聴覚で言えば、私達は20Hz~20000Hzの範囲の音しか聞くことが出来ません。しかしその範囲の外にも音の世界は広がっています。現代人の感じられない物を古代の人は感じていた…そういう観点で見ないとわからないことがあると思うのです。(感じられなくなった現代人としては、大部分を想像に任せるしかないのですが…)

そういった意味から、ここで天明氏の自動手記が起こってもなんら不思議はないと思っています。そして、上記のような古文書(比較的新しい江戸時代のものですが)に、霊夢によって何事かを書き付けたという現象が書かれていることは、「麻賀多神社は伝統的な自動手記の地なのでは?」と考えたりしています。

日月神示に関しては、スピリチュアル的な方面からのアプローチに偏っていることが少々残念です。また、予言的な部分が過大解釈されて一人歩きしているようなのも気になります。それがそこに起こったのは、長きに渡り脈々と続いてきた物の延長であり、その土地の事を知らなければ、それを真に理解することは難しいのではないでしょうか。

信奉者の方々にお願いしたいのは、神示の文面のみにとらわれず、この土地の歴史、神社の歴史をも併せて知ってほしいということです。

また、地域の歴史を考える上でも、除外することなく念頭に置くべき事象であると感じているものです。

(最終編集日 2017.8月)

 

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コメント: 1
  • #1

    なぜなに (金曜日, 16 12月 2022 09:00)

    なんで文化財に登録されたんですか?