千葉県成田市はなのき台の住宅の造成に伴い発掘調査された遺跡です。「だいかたげべ」と読みます。遺跡はⅠとⅡの二か所に分かれています。発掘時期は、平成13年から平成16年にかけてです。


「台方下平Ⅰ・Ⅱ遺跡」は、縄文時代から平安時代までの竪穴式住居や掘立柱建物墨書土器帯金具等が出土した大変重要な遺跡です。

 なぜ重要かと言えば、その規模や期間の長期にわたることもありますが、何よりも公津原古墳群という116基の古墳を有する大規模な古墳群に隣接することにです。

 公津原古墳群は、成田ニュータウン造成に伴い昭和44年から46年にかけて発掘調査され、現在40基(数基はニュータウンの領域外)が、住宅地内に保存されています。

 しかし長らくの間、この大規模古墳群に釣り合う規模の集落が存在しないという事が問題点となっていました。

 ニュータウンの発掘に伴い、幾つかの集落も発見されていますが、古墳時代に相当するものはどうも規模が小さいのです。

 JR成田駅西側の囲護台から大規模な遺跡が出ていますが、それはもう少し時代の下る奈良・平安初期のものです。

 そこへ突如として姿を現したのが、この「台方下平遺跡」だと言えるでしょう。

 遺物は旧石器時代や縄文時代の物もあり、弥生時代は多少数が増えますが、主体は古墳時代中期から奈良・平安時代です。

 公津原古墳群の古墳は最も古いもので5世紀初頭から中葉とされ、7世紀後半まで築造が続きますが、当遺跡はその時期とも一致し、規模としても大古墳群を支えるのに申し分のないものでした。

 「この遺跡を知らずして、公津原は語れない。」と言えるほどの集落遺跡だったのです。(下へ続く⇓)

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はなのき台 武蔵公園

 台方下平遺跡は、ⅠとⅡでそれぞれ微妙に異なる様相を呈して、最盛期の時期にもズレがあります。

 形状としては、北総台地によく見られるところの、河川等からの谷が複雑に入りこんだ細長い台地上に所在します。

 印旛沼域に半島状に突き出た台地の成田ニュータウン側が「Ⅱ」の遺跡。谷を挟んだ反対側が「Ⅰ」の遺跡となります。

 

≪補足≫ 印旛沼域と書きましたが、現状ではそこは水田です。かつて印旛沼は、霞ケ浦、手賀沼と一続きの内海(「香取海」と呼びます)の一部であり、当遺跡を取り巻く水田地帯は海であったのです。

 また二つの半島は宅地造成のために中間の谷が埋め立てられて、はなのき台の住宅全体は、一続きの土地となっています。

 

 

住宅内の「武蔵(ぶぞう)公園」に

遺跡の案内が設置されています

 

 

 


Ⅰ・Ⅱ遺跡の概要

台方下平Ⅰ遺跡

所在地  =千葉県成田市はなのき台3丁目付近

現状   =住宅地

種類と時期=集落遺跡(縄文~平安時代)

最盛期  =5C後~6C初頭(その後いったん住居が減り、

      8Cに再び増加。)

消滅時期 =9C後半まで安定して存続

      その後、一部は10Cまで存続するが、11Cには

      終焉を迎える。

検出遺構

 住居ー255

   縄文 1(前期)

   弥生 22(中期末~後期)

   古墳 121軒(中期後半~後期)

   奈良平安 108軒

   不明 3軒

 

 掘立柱建物ー46

   奈良平安 45

   中近世  1

 

 土坑ー186基(縄文~中近世)

 粘土採掘坑 1基(古墳中期~後期)

 溝状遺構  多数

 

主な出土品

 縄文時代ー土器(黒浜式、浮島式、加曾利式、阿玉台式、興津式など多数)

 古墳時代-臼玉、鉄鏃、紡錘車、高坏、

      須恵器杯、甕、手捏ね土器、鉄製品

      直刀(推定7C末、埋納された状態で出土)

   ※器物の概要は、次の通り

      在地の土師器、畿内産須恵器、

      東海産須恵器

      常総型甕、畿内産土師器

 奈良時代ー銅の鋳造に関連した遺物

     (銅滓など)

      新治産須恵器、常総型甕、南比企産須恵器杯、

      東海産長頚壺

      在地産須恵器(8Cになると、鹿島川流域で須恵器の 生産が開始)

 平安時代ー畿内産緑釉陶器椀

      墨書土器(「寺西成」「真」「方」「財」「丈」「万富」「有」など)

      鉄鉢型土器(掘立柱建物跡から出土。仏堂の可能性)

      金銅製帯金具、耳環

   ※耳環は、通常古墳から出土するが、ここでは一般住居から出土した。)

 

特徴

須恵器の保有率が異常に高い集落である。(ほぼ2軒に1軒の割合で出土)

調査報告書には、「一般的な集落ではないと言わねばならない。」とある。

また、陶邑製の須恵器が住居の出現期から見られ、その後も間断なく

保有が見られるのも特徴的。

操業に、国家や有力氏族の関わる銅の鋳造が行われている。

台方下平Ⅱ遺跡

所在地  =千葉県成田市はなのき台2丁目付近

現状   =住宅地

種類と時期=集落遺跡(縄文~平安時代)

最盛期  =6C後半~7C(その後継続して、拠点的集落を形成)

消滅期  =9C後半(一部は10Cまで存続、11Cに消滅)

検出遺構

 住居ー464

   縄文 1軒(中期)

   弥生 12軒(中期末)

   古墳 225軒(中期後半~後期)

   奈良平安 225

   不明 1

 掘立柱建物ー168

   古墳 6棟(後期)

   奈良平安 162棟(8Cの倉庫群と見られる)

 土坑ー124基(縄文~中近世)

     このうち2基は、弥生時代の土器棺墓ではないか

     とされる。

 火葬墓ー1

 円形周溝状遺構ー1(時代不明)

 

主な出土品

 弥生時代ー東関東系広口壺(土器棺墓の可能性)

       ※底部中央に穿孔あり

 古墳時代ー在地産須恵器、新治産須恵器

      常総型甕

 奈良平安ー畿内産土師器(大型住居などから検出)

      金銅製巡方、金環、馬具?

      墨書土器(「真」「延承」「智足?」「日下」「八代」

      「千万」「甲」「寅」「万」「占」「厨」「祝」

       その他記号のようなもの。)

      仏教関連遺物(瓦塔、鉄鉢型土器)

 

「Ⅱ遺跡」に関する詳細な報告書が出ていないので、記載事項が「Ⅰ遺跡」に偏りましたが、

「Ⅱ遺跡」は、長きに渡り近隣の盟主的集落規模を保っていること、奈良平安期の倉庫群と

思われる整然と並んだ掘立柱建物群、火葬墓の存在から、その有力性が伺われるものです。    

 

≪参考文献≫ 印旛郡市文化財センター『台方下平Ⅰ遺跡・台方下平Ⅱ遺跡発掘調査概報』、『台方下平Ⅰ遺跡』

(最終編集日 2017.8月)