キーワード集(クリックで詳細ページへ)
印旛郡 埴生郡 台方下平遺跡 麻賀多神社 公津原39号墳(伝伊都許利命墳墓 ) 麻賀多神社一覧 台方宮代遺跡 船形手黒遺跡
公津原古墳群は、印旛沼の東岸、成田市にある古墳群です。現在の成田ニュウータウン全域と隣接する地域の一部が相当し、平成2年に県の指定史跡になりました。。成田ニュータウンの造成に伴い、昭和44年から46年にかけて調査が開始され、総数120基前後の古墳が明らかになっています。古墳群は、3つの支群に分けられ、それぞれ「瓢塚古墳群」「天王船塚古墳群」「八代古墳群」と名付けられています。間違えてならないのは、この支群は地域によって便宜上分けられたもので、3つの集団が存在し、それぞれが小古墳群を造ったというわけではないということです。総数については資料によってまちまちで、『成田市史』(昭和55年刊)に記載されている支群ごとの総数を合わせると、105基。平成28年の「秋の歴史講演会」で使用された資料では、123基になっています。元々、中世の塚の可能性があるもの、逆に塚だとされていたものが古墳だったりというのはよくあるので、総数の確定というのは難しいのでしょう。現在は、そのうちの40基が住宅内などに保存され、通し番号が付けられています。
とりあえず、『成田市史』には、各支群ごとの墳形の内訳が出ているので、記載します。(古墳番号は、40基保存前の、支群ごとに付けられたものです。資料の通りに記載しました。また、群の解説冒頭に記載されている古墳数は、本文と合致しないものがあるようですが、一応記載通りに掲載し、必要に応じて本文中で解説しました。古墳数についても、以下の各群の説明中に述べていますが、あいまいなところがあるようです。)
瓢塚支群=前方後円墳1基・円墳23基・方墳17基・墳形不明1基 (このうち現存古墳は7基)
※3つの支群の中で一番南側に位置し、総数に対する方墳の割合の高さが注目される支群です。1基ある前方後円墳が「瓢塚」で、全長約35m、加良部の住宅地内に小古墳3基と共に保存されています。前方後円墳としての特徴としては、後円部(6m)と前方部(4m)の差が大きく、比較的古い段階の様相を呈しています。『成田市史』には全ての古墳の詳細が記されているわけではありませんが、敢えて言うならば、次のようになります。支群の中でも瓢塚周辺や以南に古相の方墳が見出され、それより北の天王船塚の支群寄りのものは、後期及び終末期のものであるということです。現在イオン成田ボンベルタ店の敷地内に2基の方墳が並んで保存されていますが、元は、同じくらいの規模の方墳が4基並んでいたものでした。これらは皆、終末期のものと見られ、40号墳では金糸や木製銅張把頭、馬鈴などが出土しています。その他、房総最古ではないかと言われる墨書土器(「耄?」の墨書銘)が、27号墳から出土しました。
円墳の32号墳では、人物埴輪を含む埴輪の出土がありましたが、出土状態が特異であり、資料の言葉をそのまま引用すれば「埋め込まれたというよりも、人物埴輪を中心に、雑然と置かれた状況を呈していた」とのこと。別の資料によれば、周溝の一画に、夥しい破片がわざとまとめたように置かれ、その中心に巫女埴輪の頭部が乗せられていたと言います。このただならぬ状況は何なのでしょうか?その他の出土物は、石枕、鎌、刀子、鉄鏃、立花の一部。
瓢塚の付近にあった方墳の9号墳は、この周辺では最も古い部類に入り、5世紀初頭かもしくは更に古い4世紀後半ではないかと言われています。台方宮代(2)遺跡の2号墳の方墳と同時期であり、注目に値します。
天王船塚支群=前方後円墳3基・長方形墳1基・方墳1基?・円墳27基(このうち現存古墳は15基。長方形墳1基は、以前は前方後方墳として扱われていましたが、2015年に行なわれた測量調査により、長方形墳とするほうが相応しいとされました。よって、古い資料には「前方後方墳」とされており、ここで主に参考としている『成田市史』でも、「前方後方墳」と記載されています。)
※瓢塚支群の北に位置しています。『成田市史』では、方墳1基になっていますが、他の資料に付随する地図には方墳が7基ほど書き込まれており、このあたりが総数の資料ごとの違いになっていると思われます。どうも古墳数に関しては疑わしい部分があるような感じがします。また、本文中では5基の方墳について触れており、最初に提示されている数値と異なるので、多少の間違えがあるとした上で参考にた方が良いようです。先述の地図の掲載されていた資料が何だったかを忘れてしまい、片手落ちなのですが、地図上の方墳の位置は南側の瓢塚支群の近くに集中しています。このことから、これら方墳の集中域は、方墳の多い瓢塚を中心とする地域と性格的には近いのではないでしょうか?やはり、公津原古墳群の3支群は、便宜上分けられたものだと分かります。
この支群の大きな特徴は、公津原古墳群の中の大型長方形墳及び前方後円墳が、全てここに含まれることです。最大は現在赤坂公園内に保存されている長方形墳の船塚で、全長約85m、高さ7mを測ります。墳形については、上記のように一応「長方形墳」であるとされましたが、墳頂部の形状に乱れがあり、「長方形の基壇に前方後円墳が乗っているのではないか」という説もあります。上から見た形の測量図を見ると、確かにそのようにも見えます。また、本格的な発掘調査はされていないのですが、早い時期に掘ってみた人がおり、その時の話として、「後方部に石棺が存在した」「石枕が出土した」等の伝承がありますが、定かでないのが残念です。埴輪片が採集され、それに関しては、隣接する吾妻のUR住宅付近に埴輪窯が発見され、その供給先が船塚であることが分かっています。家型埴輪らしい破片も見られたという事です。
船塚の北西の吾妻の住宅内に、石塚が保存されています。全長約40m、高さ4mの前方後円墳です。埴輪が採集されたという記録があります。
石塚の更に北西に天王塚があります。全長約60m、高さ4.3mの前方後円墳です。墳頂には八坂神社と浅間神社が祀られています。「天王塚」の名称は、牛頭天王を祀る八坂神社があることから来たものです。
これらの大型(中型)の保存古墳は、発掘調査がされておらず、詳細はわかりません。従って、6C前半から7C初頭の間にこれら3基が築造されたとしか言うことが出来ず、築造順序もわかりません。『成田市史』には、船塚古墳の築造時期について、「7世紀代」とする記述がありますが、これは、形状が“前方後方墳”とされていた頃の見解であり、今では見直されるべきものでしょう。
○なぜ前方後方墳とされながら、7Cという新しい築造時期が与えられたかというと、前方後方墳としては形状がはっきりしないため「後代になって退化した形である」と判断されたためです。とにかく様々な問題をはらむ古墳ではあります。
ここで特記しなければならないのは、天王船塚27号墳(又は公津原39号墳、伝初代印波国造伊都許利命墳墓)です。公津原の古墳とかなり離れて、麻賀多神社船形社の境内に存在しています。これは、公津原古墳群の発掘当時、この古墳の周辺には他の古墳が確認されていなかったために、天王船塚の支群に入れられたので、この様な形になりました。しかし、その後麻賀多神社船形社の近隣に幾つかの古墳が発見され、その一画で1つの古墳群を形成するような様相を呈しているため、公津原古墳群とは分けて考えた方が良いという見解が生まれていますが、公津原古墳群の通し番号が付いているので、当面は「公津原39号墳」として扱われると思います。
このように、古墳番号をはじめ、39号墳については非常にややこしいので、別項に解説しました。こちら
八代支群=前方後円墳1基、方墳4基、円墳26基。(このうち現存古墳は17基)
※公津原古墳群の一番北に位置します。17基の古墳が保存され、そのうち9基が外小代公園内に保存されています。6基が発掘調査されたといいますが、詳細がわかるほどの成果は得られなかったようです。全体に小さい古墳が多く、1基ある前方後円墳も、全長約23m、高さ僅か2mの小さなものです。発掘されていないので、築造時期なども不明です。その他、円墳とされている物の中に、実は方墳であるものが幾つか存在する可能性があるとされています。そうすると、ここも瓢塚支群と同様、方墳率が比較的高い群になるのかもしれません。特記事項としては、花内(はのじ)玉作遺跡が近くにあります。
ボンベルタ横広場・古墳マップ
ニュータウン古墳マップには、38基しか載っていませんが、それは以下のような理由によります。
①39号墳は、上記のように、ニュータウン外の船形にあるため。②八代支群内の古墳の1つは話によると、土地の人が「これは、先代が作った塚だ」と主張しているので、標柱が立てられなかったとのこと。それが40号墳になるのでしょうか?
八代支群(外小代公園)
天王船塚支群(赤坂公園内、船塚古墳)
船塚の画像は、ホームにも載せています。
≪参考文献≫ 『成田市史』原始古代編 千葉県風土記の丘資料館「H28年・秋の歴史講演会資料」(講師・白井久美子氏)
イオン成田ボンベルタ店横広場内案内板 H28年開催講座資料「成田市船塚古墳の調査について」(講師・今城未知氏)その他
あなたもジンドゥーで無料ホームページを。 無料新規登録は https://jp.jimdo.com から
YOKO (日曜日, 04 8月 2024 07:32)
はじめまして。社会人ですが大学のレポートで麻賀多神社を調べており、文献もあまり見当たらず。お話を伺いたくてもどなたに伺ってよいのかわからず探していたところこちらのHPを拝見いたしました。ぜひ、お話を伺わせて頂けないでしょうか?どうぞよろしくお願いいたします。
鷹取信男 (木曜日, 18 4月 2024 20:47)
私は自分のルーツが知りたくて、古代史を調べている老人です。自宅の近くに麻賀多神社があり、その祭神や宮司家の祖・建借馬命にも関心があり、「印波国から」を興味深く拝読させていただいております。病が高じまして「この倭王は誰か」と題する書をまとめました。よろしければ差し上げますので、ご一読していただけましたら幸いです。送付先をお知らせくださいませ。
〒285ー0927 千葉県印旛郡酒々井町酒々井178ー1 鷹取信男
hikona 2 (月曜日, 20 9月 2021 14:18)
市村利彦様
コメントありがとうございました。
長髄彦と饒速日命の関係をはじめ、とにかく謎の多い物部氏です。
また、多氏族とは時代が遡るほど重なって行くのですが、明確に両者の足跡が刻まれている印旛沼周辺は、とても興味深く重要な地域だと思うのです。
ホームページの記述は、出来る限り思いつきを排除し、出典を明確にしたいので、かなりの時間を必要とし、長らく作成が滞っております。
ご了承ください。
載せるべき資料がまだまだあるのですが…
m(_ _)m
市村利彦 (月曜日, 20 9月 2021 12:37)
素直に賛成の意を表します。ナガスネヒコ一族は滅ぼされてはいなかった。ともに、ニギハヤヒ一族とヤマトミワ王朝を経営してきたのですから。ただイワレ一族とは、歴史をともにしたくない何かの事情があったのでしょう。だから、すすんでヤマトを出て、関東方面に新たな新天地を求めたのだと思います。
megane_book様 (火曜日, 19 11月 2019)
多少のお役に立てた事を嬉しく思います。
まず各項目に出来る限り参考文献を載せる様にしていますので参考にしてください。そして、これらの資料はやはり成田市の図書館での閲覧が主体です。
図書館では、二階の資料室が役に立ちました。
ここにある資料は貸し出し不可ですが、申請してコピーすることが出来ます。
最も多く参考にしたのは、『『印旛郡誌』と『千葉県神社名鑑』です。膨大なページ数がありますので、その都度必要箇所を少しずつコピーして使っています。
その他にも、書架には各地域の地誌や、資料館の会報、市の文化財関係の冊子など色々参考になるものが並んでいます。
役立ちそうな物を片っ端から開いてみることです。(ただし資料室は17時までです。要注意!)
また、遺跡に関しては発掘調査の報告書を見ることをお勧めします。
一見すると取っ付きの悪いものですが、余計な情報が無く、地図やまとめの解説などもあるので参考になります。
遺跡名から検索して資料が有れば、情報を印刷して提示すると書庫から出してもらえます。
調査報告書は、佐倉市の「印旛郡市文化財センター」では、展示室の棚にたくさん並んでいて自由に見ることが出来ていいのですが、コピーが面倒でした。二階の事務所に声をかけてお願いしなければなりません。(ただ私はだいぶ長い間行っていないので、その辺改善されていれば良いのですが…。しかしあまり期待できないですねぇ。)
そして、調べがついたら極力現地へ行ってみることです。
地形は昔と今では違っています。昔の地形を想像して現地を見ることは非常に大切です。そうするとその神社、その遺跡がなぜそこにあるのかが手に取るようにわかることがあります。
成田市は大きな古墳群がありながら、一部の関心のある人にしか知られていない感があり、とても残念です。成田の歴史というと、「まず成田山新勝寺の歴史から」的な所があります。新勝寺も重要であり面白いのですが、なにせ存在が大きすぎて他のものが隠れてしまうんですね。
また、大抵の自治体にある歴史資料館というものが成田市にはありません。
新勝寺以前の時代の積み重ねがあってこそ成田山の歴史もますます面白くなると思うので、これも残念なことです。
なので、古い時代のこの地域の事を、細々とでも伝えていきたいと思い活動しています。
少しでも興味を持たれた若い方がいらっしゃるのはとても嬉しいことです。更なる活躍を期待します!
※主に図書館の事を書きましたが、資料館としては、栄町の「風土記の丘」と「風土記の丘資料館」は必見です。また、芝山町の「はにわ博物館」。ここの展示は大変わかりやすくとても良い博物館でした。
ただ、どこも交通の便がよろしくないのが困るところです。
megane_book (月曜日, 18 11月 2019 15:54)
こんにちは。始めまして。突然のコメント失礼いたします。
私は成田市在住の大学生です。現在、大学の自由課題でこの地域の古代史、特に麻賀多神社とイツコリノミコトに関する資料を集めて調べているのですが、資料がほとんどなく困っておりました。その中でこちらのブログの国造に関する考察やフィールドワークの記録など、実際に自分が出かけていく際に大変参考にさせて頂きました。
自分も自由課題は別として、今後もこの地域の古代史についてさらに深めていきたいと考えております。差し支えなければ、ブログ主様が参考にされた書籍や文献、施設などを伺えれば幸いです。よろしくお願いいたします。
遠藤様へ (月曜日, 22 7月 2019 20:29)
こんにちは。
ホームページを読んで頂きありがとうございます。
印旛沼周辺には多数の古墳が存在し、各地域の古墳は精査が出来ていない状態です。
むしろ、こちらが皆様の情報から色々教えていただくような状況であり、捗々しい返答は出来ないのですが、酒々井町の古墳や遺跡についての印象を述べてみたいと思います。
まず、古墳時代中盤の遺構があまり無い地域だという印象があります。
古墳については、石枕が出土したとも言われている上岩橋の大鷲神社古墳が、地域では古い部類のものと思われます。石枕が出ているとすれば、5世紀後半から6世紀半ばくらいでしょうか?
そして次に目を引くのは長方形墳の墨小盛田古墳で、これは時代も相当下った7世紀後半から8世紀初頭と言われています。
中間が思い付かないというのは、やはりその通りの状況のようです。
そしてその中で狐塚古墳は、実は私にはよくわからないのです。
調査書などを調べていないので、情報が少なく、その僅かな情報の中で7世紀後半というのがありました。
しかし、墳形が前方後円墳だと言うのです。
7世紀に入ると関東でも前方後円墳はもう造られなくなり、印旛沼周辺では栄町の浅間山古墳が「最後の前方後円墳」と言われ、7世紀初めには造られていただろうと言われている。
それなのに、何故酒々井の狐塚古墳は前方後円墳でありながら7世紀後半と言われているのか…。
ここでもう分からなくなってしまいました。
もしかすると、もう少し早い築造なのでは?と想像しています。
実は、7世紀初頭と7世紀後半では古墳を考える上で根本的な違いがあります。
何故なら、745年以降は大化の改新により全国的な政治体制が大きく変わったからです。
その意味で、墨小盛田古墳は比較的分かりやすいです。
前方後円墳がとっくに造られなくなった時代の長方形墳。
被葬者はおそらく新体制において主たる地位にあった者です。
それは、必ずしも古来の印波国造に繋がる人物というわけではないと思います。
もし国造の系譜に繋がる人物であっても、それはあくまで新体制下で新たな地位を獲得した者です。
7世紀後半になると、そのような前方後円墳でない方墳が印旛沼周辺の要所要所に見られます。
その最大の物が栄町の岩屋古墳です。
さて、狐塚古墳に話を戻しますが、仮に築造を7世紀初頭とすると、これはやはり国造の一族の物ではないかな?と思います。麻賀多神社のひとつが近くにあることもそれを思わせます。
麻賀多神社とは、ある明確な祭祀的目的を持って各所に配されていると思いますので、その一端を担った国造の一族の可能性があります。
一応、こんなところが酒々井下台周辺のヒントかな?とは思うのですが、何せ精査していないので、思いつきに近く申し訳ありませんm(_ _)m
やはり、調査書を当たって見るべきですね。
最近は忙しいのにかまけて、そういう資料をあまり見ていませんでした。
これを機に、図書館や文化財センターにも久しぶりに足を運ばねばと反省 (u_u)
狐塚古墳や周辺の遺跡の調査書を当たって見ようと思います。
良いきっかけを頂きありがとうございました (^^)
遠藤博之 (月曜日, 22 7月 2019 10:54)
私は印旛郡酒々井町の麻賀多神社下台の近くに住んでいますが、その近くにあった狐塚古墳と印波国造との関係について調べていますがご指導いただければ幸いです。
私が住んでいる酒々井町は200年前の古地図では酒々井町村となっており酒々井町村には麻賀多神社下宿がありますが1kmも離れていない麻賀多神社下台のある下台は徳川氏による天正19年9月の検地帳には「下総国印東庄中台郷御縄打水帳」とあることから当時は中台とよばれていました。また、この地の酒々井町村との隣接部に国道51号線バイパス工事に伴い発掘調査された狐塚古墳(前方後円墳全長39m)がありました。また、酒々井町の馬橋東京電力北総変電所建設にともない発掘調査した馬橋鷲尾余遺跡の報告書に鷲尾余遺跡第1号古墳は下台地の狐塚古墳の配下にあって、小地区を支配した豪族の墓と思われると記載されております。
この狐塚古墳に葬られた豪族はこの小さな下台の郷だけの首長とは考えられず、印波国造との関係ではどのような地位にあったのかを含め疑問が残る次第でございます。
odyssey様へ (金曜日, 19 7月 2019 01:27)
ホームページを読んで頂きありがとうございました。
なにぶん忙しく、最近は作成が進んでいませんで、暫く開いていなかったので、コメントに気付くのが大変遅くなり申し訳ありません m(_ _)m
印西市中根に住んでいらっしゃるとのこと。正に鳥見神社のお膝元ですね。
私も古代史に興味を持ったものの、最初はやはり「邪馬台国はどこか?」的な物や、「欠史八代の天皇は実在か?」などの、一般的に有名な地域のものばかり読んでいました。
しかし、あるきっかけで自分の住んでいる地域の歴史を調べ始めたところ、近畿や出雲に負けず劣らず、とても面白い事が分かったのです。
そして面白い事に、それは結局最初に興味を持った邪馬台国や出雲にも繋がって行きました。
結局、土地も時代も切れ目なくずっと繋がっているものなのですね。
常陸国をはじめ、奈良や九州との繋がりも重要で、それらの項目も書き足して行く予定なのですが、なかなか進んでいないことをお詫び申し上げます (ㆆ_ㆆ)
細々とでも続けて、誰も言わなければ埋もれてしまうであろう歴史の風景を伝えて行きたいと思っていますので、気長によろしくお願い致します (^^ゞ
odyssey (土曜日, 18 5月 2019 12:09)
こんにちは。千葉県印西市中根に住んでおります。鳥見神社の解説、興味深く拝見しました。
先日娘と奈良へ行った折、少し時間が空いたので、何気なく登彌神社におまいりしたところ、
宮司の奥様でしょうか、「どちらから」という雑談から、
「トミ」は「トリミ」に通じるとの事、鳥見神社の話になりました。
私の実家(白井市平塚)も鳥見神社ですし、ご縁があったんですかねえ。
私の中では、歴史といったら、遠い出雲、大和、伊勢の事みたいな感じでしたが、
こちらのサイトを拝見したら、ぐっと近づいた感があります。
何の知識もない私にはだいぶ難しいですが、今後も楽しみに拝見させていただきたいと思います。
hikona 2 (火曜日, 25 12月 2018 22:49)
鴻池 庸子様。
コメントありがとうございました。
私は、今年の秋に纏向遺跡に行き、その時等彌神社にも行って来ました。千葉県の鳥見神社との関係から是非一度は行ってみたい所でした。
鴻池様もこれから巻向の行かれる予定とのこと。また、現在千葉県在住とは奇遇ですね。
鳥見一族に関する貴重な情報をありがとうございました。
鳥見一族は明らかに神武天皇の大和入り以前の大和地方の統治者で、或いは出雲系か?とも思っていましたが、それよりも以前という事なのですね。
また、富士山が見えるというのも興味深い話です。大和政権以前の列島の実態を考えるのにとても参考になります。感謝です。
地元で言い伝えられていることは本当に重要なのですが、現地に行かないとなかなか入手出来ないのが悩みの種です (:_;)
ホームページの作成の方もなかなか進まず、近畿地方は手つかずで恐縮なのですが、ブログやインスタグラムで奈良方面を訪ねた記録も投稿していますので、そちらも見ていただけると嬉しいです。双方ともhikona 2のネームで投稿しています。
ブログタイトルは、『古代史逍遥 dropout』です。
鴻池 庸子 (火曜日, 25 12月 2018 21:05)
はじめまして。奈良県桜井市で育ちました。小学校のとき鳥見山には遠足で行きました。今は千葉に住んでいて、この秋麻賀多神社に行ってきました。
この年末に奈良の友人の案内で巻向遺跡などに行ってきます。
その友人はここに出てくる石木神社の子孫で、天皇家に黙ってずっと守ってきたと言ってました。村井康彦さんによると鳥見一族は出雲系が奈良に入る前から奈良にいたようです。そのおうちにどんな言い伝えがあるか訊いてきます。
鳥見山から富士山が見えると聞いたような気がするのですが、どう考えても低い山なので東の山にさえぎられて富士山は見えないはずです。でも、実家の母もその言い伝えをきいたことがあると言ってました。三重県の鳥見山ですかねえ。
村井さんによると天皇家の下にはいるのがいやだった人たちは大和からでて他に行ったのではないかということですので、鳥見一族は全国あちこちに移住したのかもしれませんね。
hikona 2 (火曜日, 28 8月 2018 23:34)
飯嶋かずみ様へ
はじめまして、このホームページの管理者です。
しばらくホームページを開いておらず、コメントに気が付かず申し訳ありません。再び見ていただければ幸いですが…。
さて、ご質問の武甕槌命と建借馬命との関係ですが、この両者をダイレクトに並べてしまうと、とても分かりづらいことになります。
何故なら、武甕槌神が鹿島神宮の御祭神として文献に現れるのは、中臣氏が鹿島神宮の管理氏族となってからの8世紀以降。比較的新しい時代の事だからです。
『常陸国風土記』には、武甕槌命という神名は、一切出てきません。
常陸国で奉斎されていた神は、「香島大神」でした。
すなわち、鹿島神宮(この名称もおそらく新しいもので、風土記に"大神の社"として出てくるのが、鹿島神宮の前身でしょう。)には「かしまの大神」がお祀りされていたのです。
そして、この「かしま」の語が「たけかしま」から取られているのだという考えがあるのです。
これには賛否両論あると思うのですが、私は賛成派です。
古代に茨城県東南部に移住した建借馬命の一行は、おそらく最新の道具や技術を以て、土地の開拓に当たったことでしょう。
時には、先住の民とのいざこざがあったでしょうが、概ねその高い技術は、土地の生産を躍進させて、人々の生活も向上し、結果的には「神のような人々が恵みをもたらしてくれた。」と受け取られ、時が経つとそれは伝説となり、神としてお祀りする…。
このような事が起こるのではないか?と思います。
実際、常陸国風土記では、降臨した大神はやがて鉄器や武具など、その頃の最新の道具類を人々に与え、再び昇天しました。
これこそ、上記のような史実が神話化したものではないでしょうか?
そして、この地に神の如くそれらの宝物をもたらしたのは、他でもない建借馬命率いる人達だったのです。
さて、大神の社はやがて鹿島神宮となり、御祭神も「香島大神」から「武甕槌神」に名前を変えましたが、私はこれを御祭神のすげ替えとは思っていません。
何故なら、多氏族の者の編纂に成る『古事記』に「建御雷神」の神名があるからです。
「武甕槌神」とは、元々の常陸国の神の奉斎氏族の思惑も考慮して、表向きに美々しく装いを新たにした御神名なのではと考えます。
従って、名前は変わろうとも、坐す神は建借馬命の神格化である「かしまの大神」に他ならないという思いで、私は神宮を参拝しています。
このような事を述べようと思い、「茨城県」の項目を設けましたが、最近作成が滞っておりました。
この返信を下地に、遅々とするともまた書いて行こうと思いますので、今後ともよろしくお願いいたしますm(__)m
飯嶋かずみ (金曜日, 13 7月 2018 10:57)
こんにちは。はじめまして。
突然のコメントで大変恐縮です。全くの勉強不足、見当違いな質問になってしまうのは重々承知ではありますが伺わせてください。武甕槌命と建借馬命の関係性(何らかのつながりはありますか)をご存知でしょうか。なかなか答えを見つけられず、こちらにたどり着きました。私にはまだ難しいですが、このページを一所懸命ポジティブに読ませていただきました。ありがとうございます。
寅 (金曜日, 12 1月 2018 21:02)
返事ありがとうございます。 私もコメント欄とかホームページのいろいろが分りません。
私の勝手な想像では、多氏は御間城姫の父の大彦の流れだと想像し、その祖は磯城県主大目、その祖は北海道~畿内~出雲などの大部族のクナトではないかと自論の想像をするのです。
多氏と関東の関係が分るといいなと思います。
想像ですから返事は考えなくていいです。
寅 (月曜日, 25 12月 2017 22:29)
始めまして、ブログを見てコメントするにクリックしても何も出ないのでこちらに来ました。
広島にも多家神社があります。平安時代には安芸国三社の名神大社であり、速谷神社、厳島神社、多家神社です。
広島に神武天皇が東征の折り阿岐国埃宮(えのみや)を行宮として駐留した場所に多家神社(たけじんじゃ)があります。
多氏は神武系なら九州基盤と思いますが、多氏が勝手に先祖が神武だと言ったのなら、どこが基盤か分りませんよね。私には分りません。
関東はクナト系の地だと私は思いますが、新勢力が畿内から進出してきたから、書き換えられていると私は思います。
私は広島だから関東の雰囲気が分りません。関東の史実が明らかになりますように!