公津原39号墳(伝初代印波国造伊都許利命墳墓)

公津原39号墳は、成田市に所在する公津原古墳群に所属し、現在40基保存されているうちの1基ですが、ほとんどの古墳が成田ニュータウンの住宅地内に位置するのに対して、隣の船形に所在します。

 麻賀多神社の奥宮(「手黒社」とも言う)に隣接する古墳で「伝初代印波国造伊都許利命墳墓」として千葉県の指定史跡になっています。

印波国造の任命記事は、『先代旧事本紀』の「国造本紀」に見られ、応神天皇の時代です。(応神天皇を実在として在位年代を考えると、4世紀後半であろうとされます。)

 しかし、公津原39号墳は、その状況から7世紀になってからの築造に違いなく伊都許利命の墳墓としては年代が合わないために、「伝」の文字が冠されることとなりました。

 

  古墳基本データ

所属公津原古墳群の支郡である天王船塚古墳郡に属する。(古墳番号については、発掘調査時に消滅した古墳も含む全てに支郡ごと付けられたものと、現在保存されている40基に通し番号で付けられているものの二種類が存在し、非常にややこしのですが、39号というのは保存されているものの通し番号です。教育委員会が設置した標識も39号墳になっています。因みに支郡ごとに付けられた番号は「天王船塚27号墳」ですが、現在はあまり使用されません)

形態=方墳(古い資料では円墳、或いは前方後円墳となっているものもあります。)

規模=35mx36m 高さ約5m

埋葬施設=①南側に切石積横穴式石室(内部高約2.3m、幅1.5m、奥行き3.8m)

       単室構造、軟砂岩使用  玄門部の石が一部露出しています。

      ②西側に組合わせ式箱式石棺(幅、奥行きともに推定2m)

       絹雲母片岩(筑波石)使用

       前面のおよそ半分が露出し、

       その上に石宮が置かれ、伊都許利命を祀っています。

  ※墳丘裾部に2種類の石室のあるのは非常に珍しく、成田市には他に無いとのこと。

   近隣では、千葉市、山武市などに幾つかあるそうです

築造時期=7C半ば~後半

出土品=直刀、圭甲小札、鉄鏃、石製模造品,金環、土玉

     鉄製印波国造印(平貞盛の寄進と伝わる)

  ※これらは、文久4年に発掘され、麻賀多神社宝物として保管されている。

発掘歴=文久4年(1864年)の記録あり

     近年の測量調査

 

墳丘裾部に形態の異なる埋葬施設を持つ古墳は、成田市に類例が無いと書きましたが、横穴式石室の形状も公津原古墳群の中には見られないもので、むしろ栄町龍角寺古墳群内の岩屋古墳(龍角寺105号墳)等との共通性が指摘されています。

このように公津原39号墳は、公津原古墳群の中に含まれているものの、特徴としては一線を画し、位置的にも1基だけ西側に大きく外れて所在します。その理由は、公津原古墳群の発掘当時、39号墳の周りには他の古墳が発見されていなかったため、至近の公津原古墳群に組み込まれたものでしょう。

 しかしはなのき台の台方下平遺跡の発掘後、その延長線上に数基の古墳が発見されました。(台方宮代遺跡船形手黒1号墳

また、周辺が全て発掘されたわけではなく、古墳かもしれない土の高まりが他にも幾つか存在すると言われます。

それらの古墳は、39号墳の一段下の台地の縁辺上に位置して、その地域で一つの小古墳群を形成するように見えます。

 しかしここに、また新たな問題が浮上しました。

それは、新しく発見された古墳は、最も新しいもので6C半ば以前の築造。つまり、7C後半に比定される39号墳と間断無く続いたものではないということです。

 水域と集落遺跡と神社や墓域などが、典型的な古代のコロニーを形成するかに見えるこの地域に君臨する大型方墳。これをどう捉えるかは、近隣の龍角寺古墳群や更に広範な地域と絡めての考察が必要となるでしょう。

 

私見を言わせてもらえば、「伊都許利命墳墓」という呼称はともかく、「初代印波国造の墳墓」という言い方はあながち間違えではないのではないかと思っています。なぜなら、『国造本紀』に崇神天皇や成務天皇、応神天皇の御代などの任命記事が列挙されているものの、それはそのくらい遡る時代に入植したという意識であって、東国における「国造」の存在は早くても6世紀になってからだと言われており、更にもう一つ後の時代に、少々性格を異にする「国造」という地位があった事がヒントになります。すなわち、律令制施行後に各郡に置かれた主に祭祀を職務とする「国造」です。律令制施行後の国造ならば、年代は7世紀後半となります。

祭祀を職務とした国造の墓所が、祭祀対象であった聖地の傍らにあるのは自然なことではないでしょうか?

また、船形手黒遺跡台方下平Ⅰ遺跡の盛衰の状況を考え合わせると更に興味深い事がわかるのですが、それについては別項を設けたいと思っています。

(最終編集日 2017.8月)

 

≪参考文献≫

『成田市史研究』第1号 第2号 『台方宮代遺跡発掘調査報告書』その他

墳頂に江戸時代の石碑や記念碑、中腹に金毘羅神社など墳丘は様々な手が加えられており、原型をとどめているとは言い難いものです。

『成田市史研究 第2号』藤下昌信先生の論考に「麻賀多神社累代神官の厚い崇敬心によるものとおもう…」とあり、このような例は珍しいものだと言及されています。古来からの、尊崇の程が偲ばれるものであり、これはこれで良いのだと思います。

※因みに中腹の金毘羅神社ですが、昭和62年刊の『千葉県神社名鑑』には「伊都許利神社」として社殿(石宮でない)の写真が載っています。いつ変わったものでしょうか?

(最終編集日 2017.8月)

 

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