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総の国の大くすのき

風土記は、残念ながら、上総国下総国も残っていません。

しかし、たった数行の“クスノキ”の記述が残されました。

万葉集の注釈書に、逸文として残っていたのです。

…昔、総の国にとても大きなくすのきが生えた。

都では、それを凶兆だとして、切り倒した。

倒れたくすのきの上の枝が上総となり、下の枝が下総となった…。

こんな話です。

短くも、なんと象徴的な物語でしょうか!

房総半島の、上代からおそらく奈良時代の頃までの様相を

これほど端的に表したものはないと思います。

これを具体的な出来事に当てはめてみると、

より古い時代では、海上の一族

房総半島を横断するように、

一大国を成していたと言われます。

その後、現在の山武市辺りに武射国造が、

印旛沼周辺に印波国造が進出し、分断されたと…。

 

その次の時代に分断されたのは、

多の一族ではないでしょうか?

印波国の領域は、東京湾岸よりも

茨城県東南部に近い文化圏だと思われますが、

当然、湾岸諸国ともつながりがあります。

『国造本紀』の国造の出自では、

湾岸の国造の初祖が、多氏族の祖と言われる

神八井耳命ではないけれども、

様々な資料を突き合わせると、

結局のところ、房の国の国造は皆

近い関係にあり、

それはまた、常陸の那賀国造や茨城国造とも

近しいということになるのです。

 (詳しい説明はここでは省きます。)

すなわち、ある時期には

房総半島のみならず、茨城県東部から

房総の東京湾岸のかけての広い地域を

多の氏族が支配していたのだと思われます。

 

しかしその支配体制は、745年律令制施行後

急速に突き崩されていったのです。

房総半島は上と下に分断され、そのまた下の

郡単位でも分裂がありました。

おそらく、勢力を拡散するために

中央からの働きかけがあったのだろうとされます。

 

因みに、東国に国司が派遣されたのは、

実に大化の改新のその年の事でした。

少しでも放っておけば、再び大勢力になりかねない

と危惧されるほどの力を、

東国の豪族は持っていた事が分かります。

 

大くすのきは、まさにこれらの事を

表しているのではないか?

“凶兆”と、はっきり書かれているのも

注目されます。

何故なら、この様な通常でないものの出現は、

しばしば吉兆として扱われ

記念として、改元がされることもよくあるからです。

しかしその中で、「総の大くすのき」は、凶兆とされたのです。

 

本当に風土記のこの部分が、

よくぞ残ってくれたと思います。

何者かの意志がそうさせたのではないかとまで

思ってしまいます。

また、常陸国風土記が、ほぼ完形で残ってくれたのも

幸いでした。

それを元に、下総国でもほぼ同じことがおこったであろう

と言う予測が出来るのです。

 

かつて、列島東端の地に高々とそびえ、

空を覆っていたであろう巨大なくすのきが

目に浮かびます。

 

※因みに、多氏族の出である伊都許利命が創建した

麻賀多神社では、現在幼稚園を経営していますが、

名前に「くすのき」と付けています。

神社の御神木は杉なので、

どうしてだろうと思っていましたが、

この風土記逸文の事を知り

合点がいきました。