常陸国風土記・二人の英雄

建借馬命について

『常陸国風土記』に平定譚の載る建借馬命黒坂命が、系図上で印波国造と繋がることを、系図のページで述べました。ここでは、風土記にどのような記事があり、それはどのように考えられるのかを書いていきたいと思います。

なお風土記では、建借命の表記が建借となっていますので、風土記に言及する場合は建借命と表記します。

 

建借間命の記事は、風土記の“行方郡の条”にあります。記述のあらすじは次の通りです(意訳)。➡崇神天皇の世、東の荒ぶる賊の平定に建借間命が遣わされた(これは、那賀国造の初祖である)。その皇軍を率いて、行く手の賊を討ちつつ安婆の嶋に着き、宿りをしていると、東方の浦の対岸に煙が見える。そこで、煙の靡く方向を以って誓い(うけい=占い)をしたところ、それは、味方ではなく凶賊のものだと知れた。そこで建借間命は部下に命じて、早朝に朝餉をして対岸へ渡った。そこにいたのは夜尺斯(やさかし)と夜筑斯(やつくし)という者を首領とする国栖であった。彼らは、穴を掘り砦を築いてそこに住み、皇軍のスキを伺い、追えば逃げ帰って砦を固く閉ざして防ぐ。両軍はいたちごっことなった。そこで建借間命は一計を案じた。すなわち、屈強の者を選んで山陰に潜ませ、武器を整えた。そうして準備をしておいて、渚にいくつもの舟を浮かべ、絹傘や色とりどりの旗を翻し、琴や笛を奏して七日七夜を歌い遊んだ。すると、凶賊らはその音を聞き、皆浜に出てきて喜び笑った。その機に乗じて建借間命は、隠しておいた兵を背後から襲わせ、賊を捕え焼き滅ぼした。(この後に地名起源譚が続きますが省きます。)

 

以上が建借間命の凶賊平定譚ですが、所々言葉足らずのような、何か引っかかるものがないでしょうか?あれだけすばしこく、抜け目なく皇軍を悩ましていた一団が、何故かくも易々と計略に引っかかるのか…。しかも、油断したどころではなく、浜までのこのこ出てきて笑っている。前半の展開から考えると、全くありえないことです。従来、このような疑問を感じることない論者によって、「(建借間命)が邪心のないお人好しの人たちを奸計によって滅ぼした。」などという説明がしばしばされています。これでは、前半との整合性がないばかりか、建借間命が全く悪者になってしまう上に、賊軍側のお人好し加減にもほどがありすぎます。

しかし、この腑に落ちない感じは、あることが解けることにより解決しました。それは、舟遊びの場面で、ポイントは「絹傘や幡を翻して」と「七日七夜舞い遊び」という箇所です。経緯から見て、賊は歌舞楽曲が七日間続くのを待って出てきています。何故ならそれは、葬送の光景だからです。資料によって七日間もしくは八日間と違いがありますが、葬儀ではそのくらいの期間を歌い騒ぐのが古代の習慣でした。中国の史書にも倭人の習慣として、似たようなことが載っています。また、次で紹介する黒坂命の記事にもありますが、葬列には絹傘や色とりどりの幡が用いられました。

すなわち、建借間命は死んだふりをしたのです。自分が死んで、葬儀が行われているように見せかけたのです。歌舞楽曲の騒ぎが七日続けば誰かの葬儀に違いない。あれだけ盛大に行うならば、きっと大将が死んだのだ。そう判断して彼らは浜へ出てきて喜び笑った。彼らは、琴の音笛の音を聞いて嬉しくなって笑ったのではなく、お人好しでもなんでもなく、敵の大将が死んだのを喜んだのです。こう考える方がよっぽど自然ではありませんか。

これを知ったとき、今までなんとなくモヤモヤしていたものが解けてすっきりしたと同時に、非常に嬉しく思いました。何故なら、建借間命が不当に悪者扱いされることがないからです。また、夜尺斯・夜筑斯にしても過度なお人好し扱いは不本意でしょう。

 

この記事の舞台は以下の通りです。建借間命が宿りをして誓いを行った安婆の嶋は、現在の稲敷市浮島にあたり、先端は和田公園として整備されています。浮島は風土記では“信太郡”に記載があります。戦闘の繰り広げられた対岸は行方市麻生から潮来市永山にかけての地域です。

上記の風土記の文中にある「那賀国造」ですが、『国造本紀』では成務天皇の御代に建借間命が任命されたとあります。風土記の逸話が崇神天皇の御代となっているのとは、年代が合いませんが、現在の水戸市から鹿嶋市あたりの範囲を治めた国造です。

さて、建借馬命と印波の関係は系図だけでしょうか?茨城県東南部と千葉県北部がどうやら同じ文化圏に属すらしいというのは、古墳等の出土物で分かります。また、色々な伝承や風土記の記事を突き合わせると、建借馬命と印波の関係が推し量れる事項が見え隠れしているように思います。それらはまた別のページで述べることにします。こちら

上記の記事については、他に2,3述べておきたいことがあります。やはり、船を出しての歌舞楽曲の場面ですが、長らく「杵島曲(きじまぶり)」を歌い踊ったと解釈されることが多くありました。しかし、これには少し問題があります。まず、風土記の異本が幾つかあり、本によって記述が異なることです。そして、実は多くの場合それは「杵島曲を歌った」とは読めず、最近では、そういう指摘も多く見られるようになりました。角川文庫の『風土記』は、原文として「鳴杵唱曲」を載せ、「杵を鳴らし唱曲ひ(きねをならしうたうたひ)」としています。これはどうも以前に、ある人の著作に載ったものが疑問視されることなく、定説となってしまったものと思われますが、注意して見ると、このようなことは

他にも結構ありそうです。気をつけねばなりません。では、杵島曲とは何でしょうか?それは、肥前国風土記にある歌謡です。「あられふる杵島ヶ岳を峻しみと 草とりかねて妹が手を執る」という歌詞が載せられています。この歌の類歌が万葉集にもあると言い、諸説がありますが、おそらく歌垣などで謡われた歌謡なのではないかと言われています。肥前国等の九州地方は、実は常陸とは大いに関わる地域です。建借馬命が任命されたとされる那賀国造神八井耳命を初祖とする多氏族ですが、九州北部は多氏系の国造を多く輩出しています。阿蘇国造大分国造火国造などです。考古遺物では、九州をルーツとする装飾古墳が、茨城県の海岸部から北へ向かう地域に顕著に見られます。前述の歌垣の風習も主に肥前や常陸で行われていたものです。これら常陸と九州のつながりを考えると、「鳴杵唱曲」が「杵島曲を歌った。」と読まれてもなんら不自然とは思わないのも事実です。

もう一点は、私がふと気付いてまだ解決していないものなのですが、覚え書きとして載せておきます。建借間命が早朝対岸へ出撃する部分の「褥食して」という箇所です。たいてい「朝食をとって」などと訳されていますが、何故わざわざそんな記述を入れるのか…というのが、気になっています。「褥食」という特殊な文字を使っているので、普通の「朝食」ではないのではないかとも思いますが、古文献の用字には詳しくないので、何とも言えません。どちらにしても、「朝食をとった」だけの事をわざわざ記載しないのではないかという気がします。記事全体が、言葉足らずの感じを受けるので、もしかすると、出陣に際して食物を捧げて神に祈願をし直会をする神事の描写なのではと思ったりしています。

 

※参考文献に掲げている常陽芸文センターの『常陸国風土記』の解説では、建借間命の舟を浮かべての歌舞楽曲の作戦について、「自分が死亡したように見せかけた」という説があると紹介しながら、「敵が楽しくなって出てくるような楽曲であるなら、葬儀にはそぐわないのではないか」と疑問を投げかけているが、これは、未だ「楽曲の楽しさにつられて出てきた」という従来の解釈の呪縛から抜け切れていない意見である。前述したように「国栖達は祭りの騒ぎが楽しそうだと思って出てきたのではなく、あくまで敵の大将が死んだのを喜んで出てきた。」ものと考える。また、世界にはありったけ楽しく騒いで死者を送る地域もあるという。古代日本でもそういった葬儀が行われていてもおかしくはない。現に倭人伝の記述からはそう見える。あくまでしめやかに…という現行の葬儀の常識からも離れて考えねばならないと思う。

 

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黒坂命について

黒坂命の記事は、『常陸国風土記』の茨城郡信太郡の条にありますが、信太郡の方は逸文なので、風土記の注釈本によっては載せていないものもあります。逸文は仙覚の『万葉集注釈』に所収とのこと。茨城郡の記事のあらすじは次の通りです。➡昔、先住民の国巣(土地の言葉で、ツチクモ又はヤツカハギ)、すなわち山の佐伯、野の佐伯が、穴を掘って隠れ住み、人々の様子を窺っては盗みを働いたりしていたものだ。その“狼の性”“梟のこころ”により、彼らは、土地の人々から孤立していた。そこで、大臣の族黒坂命は彼らが穴から出歩いている時を見計らい、茨を穴の中に敷いておき、騎兵をけしかけた。佐伯どもは慌てて自分らの土窟、に逃げ帰ったが、そこには茨が敷いてあったので傷を受け、その後は死んでしまったり、バラバラに散って行ってしまった。この“茨”を郡の名に付けた。

風土記には、異聞ということで、続けて同様の話を載せています。この部分では、佐伯の描写が「自ら賊の長と為り、徒衆を引率て、国中をよこしまに行き、大きにかすめ殺す。」となって、組織だった盗賊団のように書かれています。また、黒坂命が「茨を以ち城を造る。」となって、同じ茨でも、少々異なる状況となっています。

信太郡の逸文の概要は次の通りです。➡黒坂命が、陸奥の蝦夷の征討へ赴いた。勝利して凱旋の途上、多歌(多珂)郡角枯之山に至ったところで、病にかかり亡くなってしまった。それゆえ、“角枯”を改めて“黒前山”と名付けた。黒坂命の棺を乗せた車は黒前山を発ち日高見国へ向かったが、葬列の飾り物は、赤い旗や青い旗がとりどりに翻り、雲の如く虹の如くに野を照らして、行く先々の道を輝かせたものである。それを見た人々は「赤幡垂る国」と言い、後に改めて信太国という。

常陽芸文センター発行の大型本『常陸国風土記』によると、黒坂命は『常陸国風土記』にしか見えない人物だとのこと。そして、彼の記述の特異性を説いています。すなわち風土記の中で夷賊征討譚の語られる人物は、「ある天皇が○○を討つために、又は国造として遣わした。」という形式で書かれているのに、黒坂命の記事はそうなっていないということです。また、時代も「昔」と記されるのみであり、国造にもなっていませんそして、葬送の記事から分かるのは、黒坂命の本国が後の信太郡であったということです。前述の資料を参照すると、古代の軍防令に「行軍中に病死した副将以上の遺体は、本土(本国・出身地)まで運べ。」とあることに拠ります。ここで、後の信太郡が日高見国と言われていることに注意を要します。日高見国といえば、もっと北の方をいうのではという気がしますが、谷川健一氏によれば、日高見国と言うのは元々物部系の者が大和に打ち立てた国で、大和の新勢力(いわゆる神武軍)台頭により徐々に東へ、更に北へと移っていったということです。谷川健一氏の著作では、この風土記の記事も引き合いに出されていたと記憶します。日高見国が、霞ケ浦周辺だった時代があったのです。

さて、このことから言えるのは、黒坂命は建借間命の伝承よりも更に古い時代に属するのではないかということです。すなわち、大和の勢力の東国進出が顕著になる以前の段階で、当時の日高見国(後の信太郡域)を治めていた首長が、国内に跋扈する賊を平定した話なのではないでしょうか?ただ、常陽芸文センターの『常陸国風土記』でも言及されていますが、大臣の族と書かれている黒坂命が何故物部系の地域の伝承に関わるのか?と疑問が湧くでしょう。しかも、そこが出身地だと言っているのです。しかし、あることに気づけば、それは何ら不思議なことではないという気がしています。それは、「氏族の別はいったいいつからなのか。それほど古いことではないのでは?」ということです。特に九州にゆかりのある氏族や海人族と呼ばれる人達の伝承を調べていると、時代が古くなるほど氏族の別が無くなり、混然一体となってくるような気がしてなりません。もしそうならば、黒坂命について考える上での材料になり、逆に黒坂命の伝承がその考えを補強してくれるような気がします。何の講演会だったか不覚にも忘れてしまいましたが、以前地元の古代史の講演会で、講師の方が本題にちょっと付け足す形で「氏族の区別が出来たのも、それほど古いこととではない。せいぜい6世紀…」と言われていたことを興味深く聞きました。

黒坂命の伝承がかなり古い時代とすると、氏族云々ということはあまり問題にならないのではないかと思います。すなわちはるか古代、政変、開拓など様々な理由で移住して来た人達がいて、古い時代には氏族の別もなく(各々の団体の別はあったでしょうが)、混然一体となって地域を開拓し、そこからまた、他所へも移動した。そのうち、中央政権の支配が強くなると、団体ごとに役割が決まっていき、やがて氏族の区別が出来てくる。現在参考に出来る文献資料は、区別が出来てからのものですので、その時代の感覚で○○氏の祖という表現がされているのです。

実は、この問題は、このサイトのメインテーマである印波国にも深く関わります。印旛沼周辺に特徴的な分布をなす3つの神社の問題などです。

建借馬命と黒坂命・墳墓と神社

建借馬命に関係する神社と遺跡

 ①大井神社(茨城県水戸市飯富町  3475)

  建借馬命を祀る。延喜式内大井神社論社。

 ②大井神社(茨城県笠間市大渕字輪台 1652)

  神八井耳命を祀る。延喜式内大井神社論社。

※②が何故関連社になるかと言えば、神八井耳命は、建借馬命の出身氏族(多氏)の祖神だからです。①の水戸市の大井神社の由緒にも「崇神天皇の御代に建借馬命が天照大神を奉斎し、奈良時代になって郡領の宇治部氏が初代仲(那賀)国造の建借馬命を奉斎した。」とあり、当初の祭神は建借馬命ではなかった事がわかります。しかし、天照大神を祀ったとするのは、後世天照大神を頂点とする大系が出来たためで、古代において日の神が祀られたと言っても、それは必ずしも天照大神とは限りません。神八井耳命は神武天皇の皇子ですが、母の伊須気余理比売三輪山の大物主神の血を引いています。三輪山の真西5㎞ほどの所に神八井耳命他を祭神とする多神社があり、そこは、多氏の大和での本拠地です。大和の東方にある三輪山の神は、日神としての神格を備えることから、国造の祖が当初この地に奉斎した神は三輪山の神だと思われます。その証拠に、水戸市大井神社の西に位置する朝房山には、いわゆる三輪型神話が伝承されています。(三輪型神話=蛇神による異類婚神話)

①と②の関連の詳細はわかりませんが、朝房山を挟んだ位置関係、共に多氏族に関係する神を祀ることから、両社とも那賀国造に関わる社であり、当初は日神を祀っていたものが、時代を下って氏族に関連する人物を奉斎したということではないでしょうか?

 ③有賀神社(茨城県内原町有賀 1026)

  布津主命武甕槌命を祀る。

※貞観元年 建借馬命が奉斎と由緒にあります。建借馬命の年代の比定も難しいものがありますが、貞観元年(859年)はさすがに年代が合わないと思われますので、那賀国造の一族の者が創建したということでしょう。また、当初は藤内に鎮祭したとあり、現在藤井町に経津主命を祀る藤内神社があり朝房山に関する伝承もあるので、関連があるのかともおもいます。ただし、こちらの伝承は三輪型神話ではなく、「養老5年(721年)朝房の峰に霊光が輝き、その光が藤内郷に降りた。朝房山は経津主命の神山と言う。」というものです。

 ④愛宕山古墳(茨城県水戸市愛宕町 10)

  建借馬命の墳墓との伝承がある。後円部墳頂に愛宕神社があり、迦具土神を祀る。建借馬命綾媛命を配祀。

※那珂川を望む高台に築造された全長136.5m、高さ約10mの前方後円墳です。後円部墳頂などから大型円筒埴輪が出土。それらと墳形などから、6世紀初頭に比定されています。初期の開拓者の墳墓としては、新しすぎると思いますが、この時期に那珂川の水運を掌握し支配した、那賀国造の流れをくむ人物の墳墓であることは間違いありません。周囲には、かつていくつもの古墳が存在しましたが、現在は当古墳を含めて2基が残るだけです。

 ⑤安戸星古墳(茨城県水戸市飯富町 3436-20付近・現在は飯富特別支援学校になっています。)

10数基を擁する安戸星古墳群に属する1号墳で、全長40~50mの前方後方墳です。5世紀の築造であろうとされ、④の愛宕山古墳よりも前の時代です。この古墳が注目されるのは、①の大井神社が、かつてはこの古墳の麓にあったということです。正徳年間(1711~1716年)に現在の鎮座地に移ったということですが、そこもまた安戸星古墳のあった所と繋がる細長い台地上であり、周囲からは別の古墳や円筒埴輪が発見されています。

 

黒坂命に関係する神社と遺跡

 黒前神社(茨城県十王町 762)

  黒坂命を祭神とする。

※風土記にあるとおり、鎮座する山は元は角枯山と言い、黒坂命がこの麓で発病し亡くなったことから、それを悼んで「黒前山」又は「堅破山」と名を改めたと言う。奇岩が多く、太刀割石甲石船石胎内潜石等が点在しています。因みに、黒前神社の本殿は珍しい石造りのものです。

 ②黒坂命墳墓(茨城県稲敷郡美浦村大塚 89)

美浦村大塚古墳群に属する、直径約53mの円墳。古墳群は、10基の古墳から成りますが、現在残るのは4基です。そのうち当古墳は1号墳に当たり、「大塚1号墳」とも呼ばれます。その他「弁天塚古墳」とも呼ばれますが、それは墳頂に弁財天が祀られていることに拠ります。江戸時代に発掘され、石棺、人骨、鏡、甲冑、剣、石器等が出土したと、現地の案内板に記載があります。これを黒坂命の墳墓であるとしたのは、色川三中が初めであるようです。発掘が江戸時代ということで、いつごろの築造かははっきりしないのだと思われます。また、出土品がどこかに保管されている等の記載も、案内板には無く、不明です。しかし、ここは古代の信太郡に当たりますので、風土記の記事からこれを「黒坂命墳墓」とするに至ったのでしょう。

 

≪参考文献≫ 角川文庫『風土記 上』 常陽芸文センター発行『常陸国風土記』 『内原町史』   常陸安戸星古墳 調査団『常陸安戸星古墳』 

『茨城県神社誌』 現地案内板他

 

(最終編集日 2017.9月)

 

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和田公園

稲敷市・和田公園

愛宕山古墳

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黒坂命墳墓から見る霞ケ浦

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黒坂命墳墓

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愛宕山古墳

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養神台園地から見る霞ケ浦

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