『常陸国風土記』に平定譚の載る建借馬命と黒坂命が、系図上で印波国造と繋がることを、系図のページで述べました。ここでは、風土記にどのような記事があり、それはどのように考えられるのかを書いていきたいと思います。
なお風土記では、建借馬命の表記が建借間命となっていますので、風土記に言及する場合は建借間命と表記します。
建借間命の記事は、風土記の“行方郡の条”にあります。記述のあらすじは次の通りです(意訳)。➡崇神天皇の世、東の荒ぶる賊の平定に建借間命が遣わされた(これは、那賀国造の初祖である)。その皇軍を率いて、行く手の賊を討ちつつ安婆の嶋に着き、宿りをしていると、東方の浦の対岸に煙が見える。そこで、煙の靡く方向を以って誓い(うけい=占い)をしたところ、それは、味方ではなく凶賊のものだと知れた。そこで建借間命は部下に命じて、早朝に朝餉をして対岸へ渡った。そこにいたのは夜尺斯(やさかし)と夜筑斯(やつくし)という者を首領とする国栖であった。彼らは、穴を掘り砦を築いてそこに住み、皇軍のスキを伺い、追えば逃げ帰って砦を固く閉ざして防ぐ。両軍はいたちごっことなった。そこで建借間命は一計を案じた。すなわち、屈強の者を選んで山陰に潜ませ、武器を整えた。そうして準備をしておいて、渚にいくつもの舟を浮かべ、絹傘や色とりどりの旗を翻し、琴や笛を奏して七日七夜を歌い遊んだ。すると、凶賊らはその音を聞き、皆浜に出てきて喜び笑った。その機に乗じて建借間命は、隠しておいた兵を背後から襲わせ、賊を捕え焼き滅ぼした。(この後に地名起源譚が続きますが省きます。)
以上が建借間命の凶賊平定譚ですが、所々言葉足らずのような、何か引っかかるものがないでしょうか?あれだけすばしこく、抜け目なく皇軍を悩ましていた一団が、何故かくも易々と計略に引っかかるのか…。しかも、油断したどころではなく、浜までのこのこ出てきて笑っている。前半の展開から考えると、全くありえないことです。従来、このような疑問を感じることない論者によって、「(建借間命)が邪心のないお人好しの人たちを奸計によって滅ぼした。」などという説明がしばしばされています。これでは、前半との整合性がないばかりか、建借間命が全く悪者になってしまう上に、賊軍側のお人好し加減にもほどがありすぎます。
しかし、この腑に落ちない感じは、あることが解けることにより解決しました。それは、舟遊びの場面で、ポイントは「絹傘や幡を翻して」と「七日七夜舞い遊び」という箇所です。経緯から見て、賊は歌舞楽曲が七日間続くのを待って出てきています。何故ならそれは、葬送の光景だからです。資料によって七日間もしくは八日間と違いがありますが、葬儀ではそのくらいの期間を歌い騒ぐのが古代の習慣でした。中国の史書にも倭人の習慣として、似たようなことが載っています。また、次で紹介する黒坂命の記事にもありますが、葬列には絹傘や色とりどりの幡が用いられました。
すなわち、建借間命は死んだふりをしたのです。自分が死んで、葬儀が行われているように見せかけたのです。歌舞楽曲の騒ぎが七日続けば誰かの葬儀に違いない。あれだけ盛大に行うならば、きっと大将が死んだのだ。そう判断して彼らは浜へ出てきて喜び笑った。彼らは、琴の音笛の音を聞いて嬉しくなって笑ったのではなく、お人好しでもなんでもなく、敵の大将が死んだのを喜んだのです。こう考える方がよっぽど自然ではありませんか。
これを知ったとき、今までなんとなくモヤモヤしていたものが解けてすっきりしたと同時に、非常に嬉しく思いました。何故なら、建借間命が不当に悪者扱いされることがないからです。また、夜尺斯・夜筑斯にしても過度なお人好し扱いは不本意でしょう。
この記事の舞台は以下の通りです。建借間命が宿りをして誓いを行った安婆の嶋は、現在の稲敷市浮島にあたり、先端は和田公園として整備されています。浮島は風土記では“信太郡”に記載があります。戦闘の繰り広げられた対岸は行方市麻生から潮来市永山にかけての地域です。
上記の風土記の文中にある「那賀国造」ですが、『国造本紀』では成務天皇の御代に建借間命が任命されたとあります。風土記の逸話が崇神天皇の御代となっているのとは、年代が合いませんが、現在の水戸市から鹿嶋市あたりの範囲を治めた国造です。
さて、建借馬命と印波の関係は系図だけでしょうか?茨城県東南部と千葉県北部がどうやら同じ文化圏に属すらしいというのは、古墳等の出土物で分かります。また、色々な伝承や風土記の記事を突き合わせると、建借馬命と印波の関係が推し量れる事項が見え隠れしているように思います。それらはまた別のページで述べることにします。こちら
上記の記事については、他に2,3述べておきたいことがあります。やはり、船を出しての歌舞楽曲の場面ですが、長らく「杵島曲(きじまぶり)」を歌い踊ったと解釈されることが多くありました。しかし、これには少し問題があります。まず、風土記の異本が幾つかあり、本によって記述が異なることです。そして、実は多くの場合それは「杵島曲を歌った」とは読めず、最近では、そういう指摘も多く見られるようになりました。角川文庫の『風土記』は、原文として「鳴杵唱曲」を載せ、「杵を鳴らし唱曲ひ(きねをならしうたうたひ)」としています。これはどうも以前に、ある人の著作に載ったものが疑問視されることなく、定説となってしまったものと思われますが、注意して見ると、このようなことは
他にも結構ありそうです。気をつけねばなりません。では、杵島曲とは何でしょうか?それは、肥前国風土記にある歌謡です。「あられふる杵島ヶ岳を峻しみと 草とりかねて妹が手を執る」という歌詞が載せられています。この歌の類歌が万葉集にもあると言い、諸説がありますが、おそらく歌垣などで謡われた歌謡なのではないかと言われています。肥前国等の九州地方は、実は常陸とは大いに関わる地域です。建借馬命が任命されたとされる那賀国造は神八井耳命を初祖とする多氏族ですが、九州北部は多氏系の国造を多く輩出しています。阿蘇国造や大分国造、火国造などです。考古遺物では、九州をルーツとする装飾古墳が、茨城県の海岸部から北へ向かう地域に顕著に見られます。前述の歌垣の風習も主に肥前や常陸で行われていたものです。これら常陸と九州のつながりを考えると、「鳴杵唱曲」が「杵島曲を歌った。」と読まれてもなんら不自然とは思わないのも事実です。
もう一点は、私がふと気付いてまだ解決していないものなのですが、覚え書きとして載せておきます。建借間命が早朝対岸へ出撃する部分の「褥食して」という箇所です。たいてい「朝食をとって」などと訳されていますが、何故わざわざそんな記述を入れるのか…というのが、気になっています。「褥食」という特殊な文字を使っているので、普通の「朝食」ではないのではないかとも思いますが、古文献の用字には詳しくないので、何とも言えません。どちらにしても、「朝食をとった」だけの事をわざわざ記載しないのではないかという気がします。記事全体が、言葉足らずの感じを受けるので、もしかすると、出陣に際して食物を捧げて神に祈願をし直会をする神事の描写なのではと思ったりしています。
※参考文献に掲げている常陽芸文センターの『常陸国風土記』の解説では、建借間命の舟を浮かべての歌舞楽曲の作戦について、「自分が死亡したように見せかけた」という説があると紹介しながら、「敵が楽しくなって出てくるような楽曲であるなら、葬儀にはそぐわないのではないか」と疑問を投げかけているが、これは、未だ「楽曲の楽しさにつられて出てきた」という従来の解釈の呪縛から抜け切れていない意見である。前述したように「国栖達は祭りの騒ぎが楽しそうだと思って出てきたのではなく、あくまで敵の大将が死んだのを喜んで出てきた。」ものと考える。また、世界にはありったけ楽しく騒いで死者を送る地域もあるという。古代日本でもそういった葬儀が行われていてもおかしくはない。現に倭人伝の記述からはそう見える。あくまでしめやかに…という現行の葬儀の常識からも離れて考えねばならないと思う。
黒坂命の記事は、『常陸国風土記』の茨城郡と信太郡の条にありますが、信太郡の方は逸文なので、風土記の注釈本によっては載せていないものもあります。逸文は仙覚の『万葉集注釈』に所収とのこと。茨城郡の記事のあらすじは次の通りです。➡昔、先住民の国巣(土地の言葉で、ツチクモ又はヤツカハギ)、すなわち山の佐伯、野の佐伯が、穴を掘って隠れ住み、人々の様子を窺っては盗みを働いたりしていたものだ。その“狼の性”“梟のこころ”により、彼らは、土地の人々から孤立していた。そこで、大臣の族黒坂命は彼らが穴から出歩いている時を見計らい、茨を穴の中に敷いておき、騎兵をけしかけた。佐伯どもは慌てて自分らの土窟、に逃げ帰ったが、そこには茨が敷いてあったので傷を受け、その後は死んでしまったり、バラバラに散って行ってしまった。この“茨”を郡の名に付けた。
風土記には、異聞ということで、続けて同様の話を載せています。この部分では、佐伯の描写が「自ら賊の長と為り、徒衆を引率て、国中をよこしまに行き、大きにかすめ殺す。」となって、組織だった盗賊団のように書かれています。また、黒坂命が「茨を以ち城を造る。」となって、同じ茨でも、少々異なる状況となっています。
信太郡の逸文の概要は次の通りです。➡黒坂命が、陸奥の蝦夷の征討へ赴いた。勝利して凱旋の途上、多歌(多珂)郡の角枯之山に至ったところで、病にかかり亡くなってしまった。それゆえ、“角枯”を改めて“黒前山”と名付けた。黒坂命の棺を乗せた車は黒前山を発ち日高見国へ向かったが、葬列の飾り物は、赤い旗や青い旗がとりどりに翻り、雲の如く虹の如くに野を照らして、行く先々の道を輝かせたものである。それを見た人々は「赤幡垂る国」と言い、後に改めて信太国という。
常陽芸文センター発行の大型本『常陸国風土記』によると、黒坂命は『常陸国風土記』にしか見えない人物だとのこと。そして、彼の記述の特異性を説いています。すなわち風土記の中で夷賊征討譚の語られる人物は、「ある天皇が○○を討つために、又は国造として遣わした。」という形式で書かれているのに、黒坂命の記事はそうなっていないということです。また、時代も「昔」と記されるのみであり、国造にもなっていません。そして、葬送の記事から分かるのは、黒坂命の本国が後の信太郡であったということです。前述の資料を参照すると、古代の軍防令に「行軍中に病死した副将以上の遺体は、本土(本国・出身地)まで運べ。」とあることに拠ります。ここで、後の信太郡が日高見国と言われていることに注意を要します。日高見国といえば、もっと北の方をいうのではという気がしますが、谷川健一氏によれば、日高見国と言うのは元々物部系の者が大和に打ち立てた国で、大和の新勢力(いわゆる神武軍)台頭により徐々に東へ、更に北へと移っていったということです。谷川健一氏の著作では、この風土記の記事も引き合いに出されていたと記憶します。日高見国が、霞ケ浦周辺だった時代があったのです。
さて、このことから言えるのは、黒坂命は建借間命の伝承よりも更に古い時代に属するのではないかということです。すなわち、大和の勢力の東国進出が顕著になる以前の段階で、当時の日高見国(後の信太郡域)を治めていた首長が、国内に跋扈する賊を平定した話なのではないでしょうか?ただ、常陽芸文センターの『常陸国風土記』でも言及されていますが、大臣の族と書かれている黒坂命が何故物部系の地域の伝承に関わるのか?と疑問が湧くでしょう。しかも、そこが出身地だと言っているのです。しかし、あることに気づけば、それは何ら不思議なことではないという気がしています。それは、「氏族の別はいったいいつからなのか。それほど古いことではないのでは?」ということです。特に九州にゆかりのある氏族や海人族と呼ばれる人達の伝承を調べていると、時代が古くなるほど氏族の別が無くなり、混然一体となってくるような気がしてなりません。もしそうならば、黒坂命について考える上での材料になり、逆に黒坂命の伝承がその考えを補強してくれるような気がします。何の講演会だったか不覚にも忘れてしまいましたが、以前地元の古代史の講演会で、講師の方が本題にちょっと付け足す形で「氏族の区別が出来たのも、それほど古いこととではない。せいぜい6世紀…」と言われていたことを興味深く聞きました。
黒坂命の伝承がかなり古い時代とすると、氏族云々ということはあまり問題にならないのではないかと思います。すなわちはるか古代、政変、開拓など様々な理由で移住して来た人達がいて、古い時代には氏族の別もなく(各々の団体の別はあったでしょうが)、混然一体となって地域を開拓し、そこからまた、他所へも移動した。そのうち、中央政権の支配が強くなると、団体ごとに役割が決まっていき、やがて氏族の区別が出来てくる。現在参考に出来る文献資料は、区別が出来てからのものですので、その時代の感覚で○○氏の祖という表現がされているのです。
実は、この問題は、このサイトのメインテーマである印波国にも深く関わります。印旛沼周辺に特徴的な分布をなす3つの神社の問題などです。
建借馬命に関係する神社と遺跡
①大井神社(茨城県水戸市飯富町 3475)
建借馬命を祀る。延喜式内大井神社論社。
②大井神社(茨城県笠間市大渕字輪台 1652)
神八井耳命を祀る。延喜式内大井神社論社。
※②が何故関連社になるかと言えば、神八井耳命は、建借馬命の出身氏族(多氏)の祖神だからです。①の水戸市の大井神社の由緒にも「崇神天皇の御代に建借馬命が天照大神を奉斎し、奈良時代になって郡領の宇治部氏が初代仲(那賀)国造の建借馬命を奉斎した。」とあり、当初の祭神は建借馬命ではなかった事がわかります。しかし、天照大神を祀ったとするのは、後世天照大神を頂点とする大系が出来たためで、古代において日の神が祀られたと言っても、それは必ずしも天照大神とは限りません。神八井耳命は神武天皇の皇子ですが、母の伊須気余理比売は三輪山の大物主神の血を引いています。三輪山の真西5㎞ほどの所に神八井耳命他を祭神とする多神社があり、そこは、多氏の大和での本拠地です。大和の東方にある三輪山の神は、日神としての神格を備えることから、国造の祖が当初この地に奉斎した神は三輪山の神だと思われます。その証拠に、水戸市大井神社の西に位置する朝房山には、いわゆる三輪型神話が伝承されています。(三輪型神話=蛇神による異類婚神話)
①と②の関連の詳細はわかりませんが、朝房山を挟んだ位置関係、共に多氏族に関係する神を祀ることから、両社とも那賀国造に関わる社であり、当初は日神を祀っていたものが、時代を下って氏族に関連する人物を奉斎したということではないでしょうか?
③有賀神社(茨城県内原町有賀 1026)
布津主命、武甕槌命を祀る。
※貞観元年 建借馬命が奉斎と由緒にあります。建借馬命の年代の比定も難しいものがありますが、貞観元年(859年)はさすがに年代が合わないと思われますので、那賀国造の一族の者が創建したということでしょう。また、当初は藤内に鎮祭したとあり、現在藤井町に経津主命を祀る藤内神社があり朝房山に関する伝承もあるので、関連があるのかともおもいます。ただし、こちらの伝承は三輪型神話ではなく、「養老5年(721年)朝房の峰に霊光が輝き、その光が藤内郷に降りた。朝房山は経津主命の神山と言う。」というものです。
④愛宕山古墳(茨城県水戸市愛宕町 10)
建借馬命の墳墓との伝承がある。後円部墳頂に愛宕神社があり、迦具土神を祀る。建借馬命と綾媛命を配祀。
※那珂川を望む高台に築造された全長136.5m、高さ約10mの前方後円墳です。後円部墳頂などから大型円筒埴輪が出土。それらと墳形などから、6世紀初頭に比定されています。初期の開拓者の墳墓としては、新しすぎると思いますが、この時期に那珂川の水運を掌握し支配した、那賀国造の流れをくむ人物の墳墓であることは間違いありません。周囲には、かつていくつもの古墳が存在しましたが、現在は当古墳を含めて2基が残るだけです。
⑤安戸星古墳(茨城県水戸市飯富町 3436-20付近・現在は飯富特別支援学校になっています。)
10数基を擁する安戸星古墳群に属する1号墳で、全長40~50mの前方後方墳です。5世紀の築造であろうとされ、④の愛宕山古墳よりも前の時代です。この古墳が注目されるのは、①の大井神社が、かつてはこの古墳の麓にあったということです。正徳年間(1711~1716年)に現在の鎮座地に移ったということですが、そこもまた安戸星古墳のあった所と繋がる細長い台地上であり、周囲からは別の古墳や円筒埴輪が発見されています。
黒坂命に関係する神社と遺跡
①黒前神社(茨城県十王町 762)
黒坂命を祭神とする。
※風土記にあるとおり、鎮座する山は元は角枯山と言い、黒坂命がこの麓で発病し亡くなったことから、それを悼んで「黒前山」又は「堅破山」と名を改めたと言う。奇岩が多く、太刀割石、甲石、船石、胎内潜石等が点在しています。因みに、黒前神社の本殿は珍しい石造りのものです。
②黒坂命墳墓(茨城県稲敷郡美浦村大塚 89)
※美浦村大塚古墳群に属する、直径約53mの円墳。古墳群は、10基の古墳から成りますが、現在残るのは4基です。そのうち当古墳は1号墳に当たり、「大塚1号墳」とも呼ばれます。その他「弁天塚古墳」とも呼ばれますが、それは墳頂に弁財天が祀られていることに拠ります。江戸時代に発掘され、石棺、人骨、鏡、甲冑、剣、石器等が出土したと、現地の案内板に記載があります。これを黒坂命の墳墓であるとしたのは、色川三中が初めであるようです。発掘が江戸時代ということで、いつごろの築造かははっきりしないのだと思われます。また、出土品がどこかに保管されている等の記載も、案内板には無く、不明です。しかし、ここは古代の信太郡に当たりますので、風土記の記事からこれを「黒坂命墳墓」とするに至ったのでしょう。
≪参考文献≫ 角川文庫『風土記 上』 常陽芸文センター発行『常陸国風土記』 『内原町史』 常陸安戸星古墳 調査団『常陸安戸星古墳』
『茨城県神社誌』 現地案内板他
稲敷市・和田公園
愛宕山古墳
黒坂命墳墓から見る霞ケ浦
黒坂命墳墓
愛宕山古墳
養神台園地から見る霞ケ浦
あなたもジンドゥーで無料ホームページを。 無料新規登録は https://jp.jimdo.com から
YOKO (日曜日, 04 8月 2024 07:32)
はじめまして。社会人ですが大学のレポートで麻賀多神社を調べており、文献もあまり見当たらず。お話を伺いたくてもどなたに伺ってよいのかわからず探していたところこちらのHPを拝見いたしました。ぜひ、お話を伺わせて頂けないでしょうか?どうぞよろしくお願いいたします。
鷹取信男 (木曜日, 18 4月 2024 20:47)
私は自分のルーツが知りたくて、古代史を調べている老人です。自宅の近くに麻賀多神社があり、その祭神や宮司家の祖・建借馬命にも関心があり、「印波国から」を興味深く拝読させていただいております。病が高じまして「この倭王は誰か」と題する書をまとめました。よろしければ差し上げますので、ご一読していただけましたら幸いです。送付先をお知らせくださいませ。
〒285ー0927 千葉県印旛郡酒々井町酒々井178ー1 鷹取信男
hikona 2 (月曜日, 20 9月 2021 14:18)
市村利彦様
コメントありがとうございました。
長髄彦と饒速日命の関係をはじめ、とにかく謎の多い物部氏です。
また、多氏族とは時代が遡るほど重なって行くのですが、明確に両者の足跡が刻まれている印旛沼周辺は、とても興味深く重要な地域だと思うのです。
ホームページの記述は、出来る限り思いつきを排除し、出典を明確にしたいので、かなりの時間を必要とし、長らく作成が滞っております。
ご了承ください。
載せるべき資料がまだまだあるのですが…
m(_ _)m
市村利彦 (月曜日, 20 9月 2021 12:37)
素直に賛成の意を表します。ナガスネヒコ一族は滅ぼされてはいなかった。ともに、ニギハヤヒ一族とヤマトミワ王朝を経営してきたのですから。ただイワレ一族とは、歴史をともにしたくない何かの事情があったのでしょう。だから、すすんでヤマトを出て、関東方面に新たな新天地を求めたのだと思います。
megane_book様 (火曜日, 19 11月 2019)
多少のお役に立てた事を嬉しく思います。
まず各項目に出来る限り参考文献を載せる様にしていますので参考にしてください。そして、これらの資料はやはり成田市の図書館での閲覧が主体です。
図書館では、二階の資料室が役に立ちました。
ここにある資料は貸し出し不可ですが、申請してコピーすることが出来ます。
最も多く参考にしたのは、『『印旛郡誌』と『千葉県神社名鑑』です。膨大なページ数がありますので、その都度必要箇所を少しずつコピーして使っています。
その他にも、書架には各地域の地誌や、資料館の会報、市の文化財関係の冊子など色々参考になるものが並んでいます。
役立ちそうな物を片っ端から開いてみることです。(ただし資料室は17時までです。要注意!)
また、遺跡に関しては発掘調査の報告書を見ることをお勧めします。
一見すると取っ付きの悪いものですが、余計な情報が無く、地図やまとめの解説などもあるので参考になります。
遺跡名から検索して資料が有れば、情報を印刷して提示すると書庫から出してもらえます。
調査報告書は、佐倉市の「印旛郡市文化財センター」では、展示室の棚にたくさん並んでいて自由に見ることが出来ていいのですが、コピーが面倒でした。二階の事務所に声をかけてお願いしなければなりません。(ただ私はだいぶ長い間行っていないので、その辺改善されていれば良いのですが…。しかしあまり期待できないですねぇ。)
そして、調べがついたら極力現地へ行ってみることです。
地形は昔と今では違っています。昔の地形を想像して現地を見ることは非常に大切です。そうするとその神社、その遺跡がなぜそこにあるのかが手に取るようにわかることがあります。
成田市は大きな古墳群がありながら、一部の関心のある人にしか知られていない感があり、とても残念です。成田の歴史というと、「まず成田山新勝寺の歴史から」的な所があります。新勝寺も重要であり面白いのですが、なにせ存在が大きすぎて他のものが隠れてしまうんですね。
また、大抵の自治体にある歴史資料館というものが成田市にはありません。
新勝寺以前の時代の積み重ねがあってこそ成田山の歴史もますます面白くなると思うので、これも残念なことです。
なので、古い時代のこの地域の事を、細々とでも伝えていきたいと思い活動しています。
少しでも興味を持たれた若い方がいらっしゃるのはとても嬉しいことです。更なる活躍を期待します!
※主に図書館の事を書きましたが、資料館としては、栄町の「風土記の丘」と「風土記の丘資料館」は必見です。また、芝山町の「はにわ博物館」。ここの展示は大変わかりやすくとても良い博物館でした。
ただ、どこも交通の便がよろしくないのが困るところです。
megane_book (月曜日, 18 11月 2019 15:54)
こんにちは。始めまして。突然のコメント失礼いたします。
私は成田市在住の大学生です。現在、大学の自由課題でこの地域の古代史、特に麻賀多神社とイツコリノミコトに関する資料を集めて調べているのですが、資料がほとんどなく困っておりました。その中でこちらのブログの国造に関する考察やフィールドワークの記録など、実際に自分が出かけていく際に大変参考にさせて頂きました。
自分も自由課題は別として、今後もこの地域の古代史についてさらに深めていきたいと考えております。差し支えなければ、ブログ主様が参考にされた書籍や文献、施設などを伺えれば幸いです。よろしくお願いいたします。
遠藤様へ (月曜日, 22 7月 2019 20:29)
こんにちは。
ホームページを読んで頂きありがとうございます。
印旛沼周辺には多数の古墳が存在し、各地域の古墳は精査が出来ていない状態です。
むしろ、こちらが皆様の情報から色々教えていただくような状況であり、捗々しい返答は出来ないのですが、酒々井町の古墳や遺跡についての印象を述べてみたいと思います。
まず、古墳時代中盤の遺構があまり無い地域だという印象があります。
古墳については、石枕が出土したとも言われている上岩橋の大鷲神社古墳が、地域では古い部類のものと思われます。石枕が出ているとすれば、5世紀後半から6世紀半ばくらいでしょうか?
そして次に目を引くのは長方形墳の墨小盛田古墳で、これは時代も相当下った7世紀後半から8世紀初頭と言われています。
中間が思い付かないというのは、やはりその通りの状況のようです。
そしてその中で狐塚古墳は、実は私にはよくわからないのです。
調査書などを調べていないので、情報が少なく、その僅かな情報の中で7世紀後半というのがありました。
しかし、墳形が前方後円墳だと言うのです。
7世紀に入ると関東でも前方後円墳はもう造られなくなり、印旛沼周辺では栄町の浅間山古墳が「最後の前方後円墳」と言われ、7世紀初めには造られていただろうと言われている。
それなのに、何故酒々井の狐塚古墳は前方後円墳でありながら7世紀後半と言われているのか…。
ここでもう分からなくなってしまいました。
もしかすると、もう少し早い築造なのでは?と想像しています。
実は、7世紀初頭と7世紀後半では古墳を考える上で根本的な違いがあります。
何故なら、745年以降は大化の改新により全国的な政治体制が大きく変わったからです。
その意味で、墨小盛田古墳は比較的分かりやすいです。
前方後円墳がとっくに造られなくなった時代の長方形墳。
被葬者はおそらく新体制において主たる地位にあった者です。
それは、必ずしも古来の印波国造に繋がる人物というわけではないと思います。
もし国造の系譜に繋がる人物であっても、それはあくまで新体制下で新たな地位を獲得した者です。
7世紀後半になると、そのような前方後円墳でない方墳が印旛沼周辺の要所要所に見られます。
その最大の物が栄町の岩屋古墳です。
さて、狐塚古墳に話を戻しますが、仮に築造を7世紀初頭とすると、これはやはり国造の一族の物ではないかな?と思います。麻賀多神社のひとつが近くにあることもそれを思わせます。
麻賀多神社とは、ある明確な祭祀的目的を持って各所に配されていると思いますので、その一端を担った国造の一族の可能性があります。
一応、こんなところが酒々井下台周辺のヒントかな?とは思うのですが、何せ精査していないので、思いつきに近く申し訳ありませんm(_ _)m
やはり、調査書を当たって見るべきですね。
最近は忙しいのにかまけて、そういう資料をあまり見ていませんでした。
これを機に、図書館や文化財センターにも久しぶりに足を運ばねばと反省 (u_u)
狐塚古墳や周辺の遺跡の調査書を当たって見ようと思います。
良いきっかけを頂きありがとうございました (^^)
遠藤博之 (月曜日, 22 7月 2019 10:54)
私は印旛郡酒々井町の麻賀多神社下台の近くに住んでいますが、その近くにあった狐塚古墳と印波国造との関係について調べていますがご指導いただければ幸いです。
私が住んでいる酒々井町は200年前の古地図では酒々井町村となっており酒々井町村には麻賀多神社下宿がありますが1kmも離れていない麻賀多神社下台のある下台は徳川氏による天正19年9月の検地帳には「下総国印東庄中台郷御縄打水帳」とあることから当時は中台とよばれていました。また、この地の酒々井町村との隣接部に国道51号線バイパス工事に伴い発掘調査された狐塚古墳(前方後円墳全長39m)がありました。また、酒々井町の馬橋東京電力北総変電所建設にともない発掘調査した馬橋鷲尾余遺跡の報告書に鷲尾余遺跡第1号古墳は下台地の狐塚古墳の配下にあって、小地区を支配した豪族の墓と思われると記載されております。
この狐塚古墳に葬られた豪族はこの小さな下台の郷だけの首長とは考えられず、印波国造との関係ではどのような地位にあったのかを含め疑問が残る次第でございます。
odyssey様へ (金曜日, 19 7月 2019 01:27)
ホームページを読んで頂きありがとうございました。
なにぶん忙しく、最近は作成が進んでいませんで、暫く開いていなかったので、コメントに気付くのが大変遅くなり申し訳ありません m(_ _)m
印西市中根に住んでいらっしゃるとのこと。正に鳥見神社のお膝元ですね。
私も古代史に興味を持ったものの、最初はやはり「邪馬台国はどこか?」的な物や、「欠史八代の天皇は実在か?」などの、一般的に有名な地域のものばかり読んでいました。
しかし、あるきっかけで自分の住んでいる地域の歴史を調べ始めたところ、近畿や出雲に負けず劣らず、とても面白い事が分かったのです。
そして面白い事に、それは結局最初に興味を持った邪馬台国や出雲にも繋がって行きました。
結局、土地も時代も切れ目なくずっと繋がっているものなのですね。
常陸国をはじめ、奈良や九州との繋がりも重要で、それらの項目も書き足して行く予定なのですが、なかなか進んでいないことをお詫び申し上げます (ㆆ_ㆆ)
細々とでも続けて、誰も言わなければ埋もれてしまうであろう歴史の風景を伝えて行きたいと思っていますので、気長によろしくお願い致します (^^ゞ
odyssey (土曜日, 18 5月 2019 12:09)
こんにちは。千葉県印西市中根に住んでおります。鳥見神社の解説、興味深く拝見しました。
先日娘と奈良へ行った折、少し時間が空いたので、何気なく登彌神社におまいりしたところ、
宮司の奥様でしょうか、「どちらから」という雑談から、
「トミ」は「トリミ」に通じるとの事、鳥見神社の話になりました。
私の実家(白井市平塚)も鳥見神社ですし、ご縁があったんですかねえ。
私の中では、歴史といったら、遠い出雲、大和、伊勢の事みたいな感じでしたが、
こちらのサイトを拝見したら、ぐっと近づいた感があります。
何の知識もない私にはだいぶ難しいですが、今後も楽しみに拝見させていただきたいと思います。
hikona 2 (火曜日, 25 12月 2018 22:49)
鴻池 庸子様。
コメントありがとうございました。
私は、今年の秋に纏向遺跡に行き、その時等彌神社にも行って来ました。千葉県の鳥見神社との関係から是非一度は行ってみたい所でした。
鴻池様もこれから巻向の行かれる予定とのこと。また、現在千葉県在住とは奇遇ですね。
鳥見一族に関する貴重な情報をありがとうございました。
鳥見一族は明らかに神武天皇の大和入り以前の大和地方の統治者で、或いは出雲系か?とも思っていましたが、それよりも以前という事なのですね。
また、富士山が見えるというのも興味深い話です。大和政権以前の列島の実態を考えるのにとても参考になります。感謝です。
地元で言い伝えられていることは本当に重要なのですが、現地に行かないとなかなか入手出来ないのが悩みの種です (:_;)
ホームページの作成の方もなかなか進まず、近畿地方は手つかずで恐縮なのですが、ブログやインスタグラムで奈良方面を訪ねた記録も投稿していますので、そちらも見ていただけると嬉しいです。双方ともhikona 2のネームで投稿しています。
ブログタイトルは、『古代史逍遥 dropout』です。
鴻池 庸子 (火曜日, 25 12月 2018 21:05)
はじめまして。奈良県桜井市で育ちました。小学校のとき鳥見山には遠足で行きました。今は千葉に住んでいて、この秋麻賀多神社に行ってきました。
この年末に奈良の友人の案内で巻向遺跡などに行ってきます。
その友人はここに出てくる石木神社の子孫で、天皇家に黙ってずっと守ってきたと言ってました。村井康彦さんによると鳥見一族は出雲系が奈良に入る前から奈良にいたようです。そのおうちにどんな言い伝えがあるか訊いてきます。
鳥見山から富士山が見えると聞いたような気がするのですが、どう考えても低い山なので東の山にさえぎられて富士山は見えないはずです。でも、実家の母もその言い伝えをきいたことがあると言ってました。三重県の鳥見山ですかねえ。
村井さんによると天皇家の下にはいるのがいやだった人たちは大和からでて他に行ったのではないかということですので、鳥見一族は全国あちこちに移住したのかもしれませんね。
hikona 2 (火曜日, 28 8月 2018 23:34)
飯嶋かずみ様へ
はじめまして、このホームページの管理者です。
しばらくホームページを開いておらず、コメントに気が付かず申し訳ありません。再び見ていただければ幸いですが…。
さて、ご質問の武甕槌命と建借馬命との関係ですが、この両者をダイレクトに並べてしまうと、とても分かりづらいことになります。
何故なら、武甕槌神が鹿島神宮の御祭神として文献に現れるのは、中臣氏が鹿島神宮の管理氏族となってからの8世紀以降。比較的新しい時代の事だからです。
『常陸国風土記』には、武甕槌命という神名は、一切出てきません。
常陸国で奉斎されていた神は、「香島大神」でした。
すなわち、鹿島神宮(この名称もおそらく新しいもので、風土記に"大神の社"として出てくるのが、鹿島神宮の前身でしょう。)には「かしまの大神」がお祀りされていたのです。
そして、この「かしま」の語が「たけかしま」から取られているのだという考えがあるのです。
これには賛否両論あると思うのですが、私は賛成派です。
古代に茨城県東南部に移住した建借馬命の一行は、おそらく最新の道具や技術を以て、土地の開拓に当たったことでしょう。
時には、先住の民とのいざこざがあったでしょうが、概ねその高い技術は、土地の生産を躍進させて、人々の生活も向上し、結果的には「神のような人々が恵みをもたらしてくれた。」と受け取られ、時が経つとそれは伝説となり、神としてお祀りする…。
このような事が起こるのではないか?と思います。
実際、常陸国風土記では、降臨した大神はやがて鉄器や武具など、その頃の最新の道具類を人々に与え、再び昇天しました。
これこそ、上記のような史実が神話化したものではないでしょうか?
そして、この地に神の如くそれらの宝物をもたらしたのは、他でもない建借馬命率いる人達だったのです。
さて、大神の社はやがて鹿島神宮となり、御祭神も「香島大神」から「武甕槌神」に名前を変えましたが、私はこれを御祭神のすげ替えとは思っていません。
何故なら、多氏族の者の編纂に成る『古事記』に「建御雷神」の神名があるからです。
「武甕槌神」とは、元々の常陸国の神の奉斎氏族の思惑も考慮して、表向きに美々しく装いを新たにした御神名なのではと考えます。
従って、名前は変わろうとも、坐す神は建借馬命の神格化である「かしまの大神」に他ならないという思いで、私は神宮を参拝しています。
このような事を述べようと思い、「茨城県」の項目を設けましたが、最近作成が滞っておりました。
この返信を下地に、遅々とするともまた書いて行こうと思いますので、今後ともよろしくお願いいたしますm(__)m
飯嶋かずみ (金曜日, 13 7月 2018 10:57)
こんにちは。はじめまして。
突然のコメントで大変恐縮です。全くの勉強不足、見当違いな質問になってしまうのは重々承知ではありますが伺わせてください。武甕槌命と建借馬命の関係性(何らかのつながりはありますか)をご存知でしょうか。なかなか答えを見つけられず、こちらにたどり着きました。私にはまだ難しいですが、このページを一所懸命ポジティブに読ませていただきました。ありがとうございます。
寅 (金曜日, 12 1月 2018 21:02)
返事ありがとうございます。 私もコメント欄とかホームページのいろいろが分りません。
私の勝手な想像では、多氏は御間城姫の父の大彦の流れだと想像し、その祖は磯城県主大目、その祖は北海道~畿内~出雲などの大部族のクナトではないかと自論の想像をするのです。
多氏と関東の関係が分るといいなと思います。
想像ですから返事は考えなくていいです。
寅 (月曜日, 25 12月 2017 22:29)
始めまして、ブログを見てコメントするにクリックしても何も出ないのでこちらに来ました。
広島にも多家神社があります。平安時代には安芸国三社の名神大社であり、速谷神社、厳島神社、多家神社です。
広島に神武天皇が東征の折り阿岐国埃宮(えのみや)を行宮として駐留した場所に多家神社(たけじんじゃ)があります。
多氏は神武系なら九州基盤と思いますが、多氏が勝手に先祖が神武だと言ったのなら、どこが基盤か分りませんよね。私には分りません。
関東はクナト系の地だと私は思いますが、新勢力が畿内から進出してきたから、書き換えられていると私は思います。
私は広島だから関東の雰囲気が分りません。関東の史実が明らかになりますように!