千葉県成田市の麻賀多神社に伝わる縁起は幾つか存在します。1765年のものが最も長く、神代文字で書かれた本文が『印旛郡誌』に載っています。大正時代刊行のこの資料の特徴は、客観的な観点からの記述に努めながら、その中に徹底していない箇所が見受けられるところです。麻賀多神社縁起の記載部分には、特にそれが現れています。すなわち、公津村の項の中途の章にいきなり長文の神代文字が現れ、末尾に「太田家所蔵文書」とだけ書かれているものです。本来は「麻賀多神社宮司太田家」と書かれるべきであり、いつの如何なる謂れのある文章なのかが付記されるべきと思いますが、そうなっていません。しかし、かえってここに当時の意識のあり方が伺われ、書かれていない行間の情報とも言えるべきものがあるわけです。大正12年当時、麻賀多神社は、わざわざ子細を断るまでもないほどこの地域の中心的な存在だったということです。そういう意味で、『印旛郡誌』のこの部分は非常に重要な箇所であると言えます。(因みに中心的な神社の場所が住所で1番地となっているのが、他の地域でもよく見られます。台方の麻賀多神社の所在地は台方1番地ですので、そこにもそういった意識が現れているのだと思います。)※戦後の宗教的な整備による組織の大きな改変は、人々の意識にも変化をもたらしたのでしょう。僅か百年足らずの間にもこんなに変化する事があるのです。ましてや千年以上前のことがどれだけわかるのかと、古代史をやる者としてはつい思ってしまいますね…。その他の由緒についてはこちら
さて、1765年の縁起は、唯一日本武尊の記載があることが特徴です。『印旛郡誌』には、神代文字にカタカナが振ってありますので、それを元に意訳文を作ってみました。(わかりやすいように意訳してあります。よくわからなかった部分、又は文面通りにに書いた方が良いと思う語句は、そのままカタカナ書きにしてあります。また、間違えもあるかもしれません。あくまで参考ということでご了承ください。)
まず、縁起の構成について説明します。
全体として、伊都許利命が語ったと言う形になっており、おおむね四段階に分かれています。最初は、『古事記』にあるようなヤマトタケルの話がかなり長く続きます。そして②,③段の末尾には、命もしくは神の言葉らしきものが添えられています。概要は次のようになります。
①土地の検分と里長の語る日本武尊(小碓命)の話 ➡ ②神祀りと豊穣 ➡ ③我が子の病と神託 ➡ ④神託の内容
≪訳文≫
譽田の皇命の御代廿年、私はこの国にやってきました。処々を見て歩くとどうも土壌が悪く、 果たして作物がよく実っているのだろうかと案じて、里の長を呼んで問うてみることにしたのです。。
里長の語るは、その昔の小碓の命の物語…
景行天皇の皇子である小碓の命が、東国のまつろわぬ人らに、善きことを伝え共に力を合わせて国を作ろうと、この地にもやって来たのであった。その途上、小碓の命が海を渡ろうとした時、そこを守る渡りの神が波を起こしたので、船は漂うばかりで少しも前へ進まない。困り果てていると、妃のオトタチバナヒメが神を鎮めるために、命の身代わりとなって海へ入った。その時、モロノウネメという者も一緒に入水した。するとたちまち海は凪ぎ、命は無事に海を渡ることが出来たのだ。そこで、飛ぶように進む鳥船を集めて更に進もうとしたが、タチバナヒメと逢うことがもはや叶わなくなってしまった事が何とも悲しいのだった。そんな折、トミという者が、ヒメの遺品の御櫛を命に奉った。そこで、夕日の赤く照らす所を選んで塚を作らせ、御櫛を納め、気を取り直して其処より出立したのであった。
さて、命の率いる船団がいよいよこの浦に入って来たが、その数の多いことと言ったら…。はるか遠くまで船で埋め尽くされてしまったので、「ああ、船の尾があんなに長いことよ!」とおっしゃった。
また、命の船を山の麓に納めたので、山が船の形になった。これを船塚という。
また、上陸して今来た船路を振り返ると、水鳥がたくさん集まって戯れていたので、「まるで旗に文様が描かれているようだ」とおっしゃった。そして、これは、神の御教えが顕れたのであると悦び、松杉の生い茂る山に登り、(木々が鬱蒼としてあまりに暗いので)「これは道暗山だ」と言いつつ、杉の木のうろに鏡を掛けて、伊勢大御神を拝まれた。
(もともと作物の出来の悪い地であったため)この鏡を崇め奉れば、米麦も自然によく実るであろうとおっしゃって、命はこの地を出立されたのである…
このような話を聞いた私は、昔日の命の教えに従ってその鏡を崇め奉っておりますと、本当にその通りになったので、この鏡を「印波国魂瀛(おきつ)鏡」として社殿を建て、天照稚日孁の大神と申し上げて斎き祀ることに致しました。すると不思議なことに、神の霊威によって甘き雨降り、甘き水の湧き出でたのでありましょうか、水田も棚田も日に日に拓けて、益々良い実りの地となったのです。里人は悦び、この神を益々敬い慕いました。
そうしているうち、私は夢に大御神様の教えを賜りました。大御神様の私に教えたもうた事には、「木の下に玉がある。掘り出して稚産霊命を祀れ」というものです。そこで、夢の教えのままに七つの玉を取り出して、麻賀多眞の大神として斎き祀ると、人民、土地はますます富み栄えたのでありました。
~(このような次第であるから)天地日月と共に常盤にこの社を守り給い、狭い国土も広くなり、苦難に満ちた国中も安心して暮らせるように、五穀も豊かに実るようにと、子孫代々に至っても祈り申せよ。~
その後、更にこんな事もございました。やはり誉田の皇命の御代廿余り七年のことでございます。我が子浦長多津命が病に伏しました。私は、大神の大前に、昼は日の暮れるまで、夜は夜通し「病癒し給え、直し給え」と祈り申しました。するとある夜、夢の中で何か書き付けたように覚えてふと見ると、この文が手許にあったのです。これは、大御神がその御心で私に書かせてお教え下さったのだと嬉しく思い、文に書かれた通りにしてみると、不思議なことに我が子の病はすっかり治ってしまったのでありました。
~これは、多くの民を救った文である。このようにして、汝の子孫も、人民も共に救ってやれよ。~
(さて、この文には、次のような事が記されていたのでございます。)
まず八方の事は、このように記すこととする。 天の真中を①、西北を②、北を③、東北を④、東を⑤、東南を⑥、南を⑦、西南を⑧、西を⑨と記す。天御中主神は①を主宰し、全ての人にナカハラの御魂を分けて下さる神である。高皇産霊神は、②を主宰し、全ての人にウワハラの御魂を分けて下さる神である。葦芽彦遅神は、③を主宰し、ソバハラの御魂を分けて下さる神である。玉留産霊神は、④を主宰し、天御中主神と共にナカハラの御魂を分けて下さる神である。生生(産?)霊神は、⑤を主宰し、キモの御魂を分けて下さる神である。足産霊神は、⑥を主宰し、イクムスヒの神と共にキモの御魂を分けて下さる神である。稚日霊神は、⑦を主宰し、オモイハカリの御魂を分けて下さる神である。神産霊神は、⑧を主宰し、天御中主神と共にナカハラの御魂を分けて下さる神である。稚産霊神は、⑨を主宰し、高皇産霊神と共にウワハラの御魂を分けて下さる神である。これら九柱の神々を年毎月毎に巡れば、ヒトトモニ多くのヨゴト(寿詞?)を授けて下さるのである。しかし、その巡りの方法を誤ったり、怠った時は、禍が起こるであろう。云々。 太田家所蔵文書
≪私見≫上記カタカナ太字の部分について ➡ ナカハラ=中原で「葦原の中国」という如く、地上のことなのではないか。ウワハラ=上原で中国に対する天上界ではないかと思っています。ソバハラについては、ちょっとわかりません。また、キモも難しかったのですが、「胆」なのでは?と思います。「胆」という字は、内臓のキモを表すばかりでなく、心、気力、魂などの意味があります。そこで、地上や天上の顕界に対する精神の世界及び幽冥界を言っているのではないかと考えました。参考として、香取神宮摂社の「膽男まもりお神社」を挙げたいと思います。「膽」は「胆」の旧字体です。ここのご祭神は大己貴命。顕界と幽冥界の双方を主宰するという大物主神と同神とされる神です。また、膽男神社は、西方で香取神宮の参道を守る役割をしています。この神に対して「膽」の文字、そしてそれを「まもり」と読ませることは、誠に相応しいのではないでしょうか。この膽男神社の事を思い起こし、キモに上記のような意味を考えたのですがいかがでしょうか?
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YOKO (日曜日, 04 8月 2024 07:32)
はじめまして。社会人ですが大学のレポートで麻賀多神社を調べており、文献もあまり見当たらず。お話を伺いたくてもどなたに伺ってよいのかわからず探していたところこちらのHPを拝見いたしました。ぜひ、お話を伺わせて頂けないでしょうか?どうぞよろしくお願いいたします。
鷹取信男 (木曜日, 18 4月 2024 20:47)
私は自分のルーツが知りたくて、古代史を調べている老人です。自宅の近くに麻賀多神社があり、その祭神や宮司家の祖・建借馬命にも関心があり、「印波国から」を興味深く拝読させていただいております。病が高じまして「この倭王は誰か」と題する書をまとめました。よろしければ差し上げますので、ご一読していただけましたら幸いです。送付先をお知らせくださいませ。
〒285ー0927 千葉県印旛郡酒々井町酒々井178ー1 鷹取信男
hikona 2 (月曜日, 20 9月 2021 14:18)
市村利彦様
コメントありがとうございました。
長髄彦と饒速日命の関係をはじめ、とにかく謎の多い物部氏です。
また、多氏族とは時代が遡るほど重なって行くのですが、明確に両者の足跡が刻まれている印旛沼周辺は、とても興味深く重要な地域だと思うのです。
ホームページの記述は、出来る限り思いつきを排除し、出典を明確にしたいので、かなりの時間を必要とし、長らく作成が滞っております。
ご了承ください。
載せるべき資料がまだまだあるのですが…
m(_ _)m
市村利彦 (月曜日, 20 9月 2021 12:37)
素直に賛成の意を表します。ナガスネヒコ一族は滅ぼされてはいなかった。ともに、ニギハヤヒ一族とヤマトミワ王朝を経営してきたのですから。ただイワレ一族とは、歴史をともにしたくない何かの事情があったのでしょう。だから、すすんでヤマトを出て、関東方面に新たな新天地を求めたのだと思います。
megane_book様 (火曜日, 19 11月 2019)
多少のお役に立てた事を嬉しく思います。
まず各項目に出来る限り参考文献を載せる様にしていますので参考にしてください。そして、これらの資料はやはり成田市の図書館での閲覧が主体です。
図書館では、二階の資料室が役に立ちました。
ここにある資料は貸し出し不可ですが、申請してコピーすることが出来ます。
最も多く参考にしたのは、『『印旛郡誌』と『千葉県神社名鑑』です。膨大なページ数がありますので、その都度必要箇所を少しずつコピーして使っています。
その他にも、書架には各地域の地誌や、資料館の会報、市の文化財関係の冊子など色々参考になるものが並んでいます。
役立ちそうな物を片っ端から開いてみることです。(ただし資料室は17時までです。要注意!)
また、遺跡に関しては発掘調査の報告書を見ることをお勧めします。
一見すると取っ付きの悪いものですが、余計な情報が無く、地図やまとめの解説などもあるので参考になります。
遺跡名から検索して資料が有れば、情報を印刷して提示すると書庫から出してもらえます。
調査報告書は、佐倉市の「印旛郡市文化財センター」では、展示室の棚にたくさん並んでいて自由に見ることが出来ていいのですが、コピーが面倒でした。二階の事務所に声をかけてお願いしなければなりません。(ただ私はだいぶ長い間行っていないので、その辺改善されていれば良いのですが…。しかしあまり期待できないですねぇ。)
そして、調べがついたら極力現地へ行ってみることです。
地形は昔と今では違っています。昔の地形を想像して現地を見ることは非常に大切です。そうするとその神社、その遺跡がなぜそこにあるのかが手に取るようにわかることがあります。
成田市は大きな古墳群がありながら、一部の関心のある人にしか知られていない感があり、とても残念です。成田の歴史というと、「まず成田山新勝寺の歴史から」的な所があります。新勝寺も重要であり面白いのですが、なにせ存在が大きすぎて他のものが隠れてしまうんですね。
また、大抵の自治体にある歴史資料館というものが成田市にはありません。
新勝寺以前の時代の積み重ねがあってこそ成田山の歴史もますます面白くなると思うので、これも残念なことです。
なので、古い時代のこの地域の事を、細々とでも伝えていきたいと思い活動しています。
少しでも興味を持たれた若い方がいらっしゃるのはとても嬉しいことです。更なる活躍を期待します!
※主に図書館の事を書きましたが、資料館としては、栄町の「風土記の丘」と「風土記の丘資料館」は必見です。また、芝山町の「はにわ博物館」。ここの展示は大変わかりやすくとても良い博物館でした。
ただ、どこも交通の便がよろしくないのが困るところです。
megane_book (月曜日, 18 11月 2019 15:54)
こんにちは。始めまして。突然のコメント失礼いたします。
私は成田市在住の大学生です。現在、大学の自由課題でこの地域の古代史、特に麻賀多神社とイツコリノミコトに関する資料を集めて調べているのですが、資料がほとんどなく困っておりました。その中でこちらのブログの国造に関する考察やフィールドワークの記録など、実際に自分が出かけていく際に大変参考にさせて頂きました。
自分も自由課題は別として、今後もこの地域の古代史についてさらに深めていきたいと考えております。差し支えなければ、ブログ主様が参考にされた書籍や文献、施設などを伺えれば幸いです。よろしくお願いいたします。
遠藤様へ (月曜日, 22 7月 2019 20:29)
こんにちは。
ホームページを読んで頂きありがとうございます。
印旛沼周辺には多数の古墳が存在し、各地域の古墳は精査が出来ていない状態です。
むしろ、こちらが皆様の情報から色々教えていただくような状況であり、捗々しい返答は出来ないのですが、酒々井町の古墳や遺跡についての印象を述べてみたいと思います。
まず、古墳時代中盤の遺構があまり無い地域だという印象があります。
古墳については、石枕が出土したとも言われている上岩橋の大鷲神社古墳が、地域では古い部類のものと思われます。石枕が出ているとすれば、5世紀後半から6世紀半ばくらいでしょうか?
そして次に目を引くのは長方形墳の墨小盛田古墳で、これは時代も相当下った7世紀後半から8世紀初頭と言われています。
中間が思い付かないというのは、やはりその通りの状況のようです。
そしてその中で狐塚古墳は、実は私にはよくわからないのです。
調査書などを調べていないので、情報が少なく、その僅かな情報の中で7世紀後半というのがありました。
しかし、墳形が前方後円墳だと言うのです。
7世紀に入ると関東でも前方後円墳はもう造られなくなり、印旛沼周辺では栄町の浅間山古墳が「最後の前方後円墳」と言われ、7世紀初めには造られていただろうと言われている。
それなのに、何故酒々井の狐塚古墳は前方後円墳でありながら7世紀後半と言われているのか…。
ここでもう分からなくなってしまいました。
もしかすると、もう少し早い築造なのでは?と想像しています。
実は、7世紀初頭と7世紀後半では古墳を考える上で根本的な違いがあります。
何故なら、745年以降は大化の改新により全国的な政治体制が大きく変わったからです。
その意味で、墨小盛田古墳は比較的分かりやすいです。
前方後円墳がとっくに造られなくなった時代の長方形墳。
被葬者はおそらく新体制において主たる地位にあった者です。
それは、必ずしも古来の印波国造に繋がる人物というわけではないと思います。
もし国造の系譜に繋がる人物であっても、それはあくまで新体制下で新たな地位を獲得した者です。
7世紀後半になると、そのような前方後円墳でない方墳が印旛沼周辺の要所要所に見られます。
その最大の物が栄町の岩屋古墳です。
さて、狐塚古墳に話を戻しますが、仮に築造を7世紀初頭とすると、これはやはり国造の一族の物ではないかな?と思います。麻賀多神社のひとつが近くにあることもそれを思わせます。
麻賀多神社とは、ある明確な祭祀的目的を持って各所に配されていると思いますので、その一端を担った国造の一族の可能性があります。
一応、こんなところが酒々井下台周辺のヒントかな?とは思うのですが、何せ精査していないので、思いつきに近く申し訳ありませんm(_ _)m
やはり、調査書を当たって見るべきですね。
最近は忙しいのにかまけて、そういう資料をあまり見ていませんでした。
これを機に、図書館や文化財センターにも久しぶりに足を運ばねばと反省 (u_u)
狐塚古墳や周辺の遺跡の調査書を当たって見ようと思います。
良いきっかけを頂きありがとうございました (^^)
遠藤博之 (月曜日, 22 7月 2019 10:54)
私は印旛郡酒々井町の麻賀多神社下台の近くに住んでいますが、その近くにあった狐塚古墳と印波国造との関係について調べていますがご指導いただければ幸いです。
私が住んでいる酒々井町は200年前の古地図では酒々井町村となっており酒々井町村には麻賀多神社下宿がありますが1kmも離れていない麻賀多神社下台のある下台は徳川氏による天正19年9月の検地帳には「下総国印東庄中台郷御縄打水帳」とあることから当時は中台とよばれていました。また、この地の酒々井町村との隣接部に国道51号線バイパス工事に伴い発掘調査された狐塚古墳(前方後円墳全長39m)がありました。また、酒々井町の馬橋東京電力北総変電所建設にともない発掘調査した馬橋鷲尾余遺跡の報告書に鷲尾余遺跡第1号古墳は下台地の狐塚古墳の配下にあって、小地区を支配した豪族の墓と思われると記載されております。
この狐塚古墳に葬られた豪族はこの小さな下台の郷だけの首長とは考えられず、印波国造との関係ではどのような地位にあったのかを含め疑問が残る次第でございます。
odyssey様へ (金曜日, 19 7月 2019 01:27)
ホームページを読んで頂きありがとうございました。
なにぶん忙しく、最近は作成が進んでいませんで、暫く開いていなかったので、コメントに気付くのが大変遅くなり申し訳ありません m(_ _)m
印西市中根に住んでいらっしゃるとのこと。正に鳥見神社のお膝元ですね。
私も古代史に興味を持ったものの、最初はやはり「邪馬台国はどこか?」的な物や、「欠史八代の天皇は実在か?」などの、一般的に有名な地域のものばかり読んでいました。
しかし、あるきっかけで自分の住んでいる地域の歴史を調べ始めたところ、近畿や出雲に負けず劣らず、とても面白い事が分かったのです。
そして面白い事に、それは結局最初に興味を持った邪馬台国や出雲にも繋がって行きました。
結局、土地も時代も切れ目なくずっと繋がっているものなのですね。
常陸国をはじめ、奈良や九州との繋がりも重要で、それらの項目も書き足して行く予定なのですが、なかなか進んでいないことをお詫び申し上げます (ㆆ_ㆆ)
細々とでも続けて、誰も言わなければ埋もれてしまうであろう歴史の風景を伝えて行きたいと思っていますので、気長によろしくお願い致します (^^ゞ
odyssey (土曜日, 18 5月 2019 12:09)
こんにちは。千葉県印西市中根に住んでおります。鳥見神社の解説、興味深く拝見しました。
先日娘と奈良へ行った折、少し時間が空いたので、何気なく登彌神社におまいりしたところ、
宮司の奥様でしょうか、「どちらから」という雑談から、
「トミ」は「トリミ」に通じるとの事、鳥見神社の話になりました。
私の実家(白井市平塚)も鳥見神社ですし、ご縁があったんですかねえ。
私の中では、歴史といったら、遠い出雲、大和、伊勢の事みたいな感じでしたが、
こちらのサイトを拝見したら、ぐっと近づいた感があります。
何の知識もない私にはだいぶ難しいですが、今後も楽しみに拝見させていただきたいと思います。
hikona 2 (火曜日, 25 12月 2018 22:49)
鴻池 庸子様。
コメントありがとうございました。
私は、今年の秋に纏向遺跡に行き、その時等彌神社にも行って来ました。千葉県の鳥見神社との関係から是非一度は行ってみたい所でした。
鴻池様もこれから巻向の行かれる予定とのこと。また、現在千葉県在住とは奇遇ですね。
鳥見一族に関する貴重な情報をありがとうございました。
鳥見一族は明らかに神武天皇の大和入り以前の大和地方の統治者で、或いは出雲系か?とも思っていましたが、それよりも以前という事なのですね。
また、富士山が見えるというのも興味深い話です。大和政権以前の列島の実態を考えるのにとても参考になります。感謝です。
地元で言い伝えられていることは本当に重要なのですが、現地に行かないとなかなか入手出来ないのが悩みの種です (:_;)
ホームページの作成の方もなかなか進まず、近畿地方は手つかずで恐縮なのですが、ブログやインスタグラムで奈良方面を訪ねた記録も投稿していますので、そちらも見ていただけると嬉しいです。双方ともhikona 2のネームで投稿しています。
ブログタイトルは、『古代史逍遥 dropout』です。
鴻池 庸子 (火曜日, 25 12月 2018 21:05)
はじめまして。奈良県桜井市で育ちました。小学校のとき鳥見山には遠足で行きました。今は千葉に住んでいて、この秋麻賀多神社に行ってきました。
この年末に奈良の友人の案内で巻向遺跡などに行ってきます。
その友人はここに出てくる石木神社の子孫で、天皇家に黙ってずっと守ってきたと言ってました。村井康彦さんによると鳥見一族は出雲系が奈良に入る前から奈良にいたようです。そのおうちにどんな言い伝えがあるか訊いてきます。
鳥見山から富士山が見えると聞いたような気がするのですが、どう考えても低い山なので東の山にさえぎられて富士山は見えないはずです。でも、実家の母もその言い伝えをきいたことがあると言ってました。三重県の鳥見山ですかねえ。
村井さんによると天皇家の下にはいるのがいやだった人たちは大和からでて他に行ったのではないかということですので、鳥見一族は全国あちこちに移住したのかもしれませんね。
hikona 2 (火曜日, 28 8月 2018 23:34)
飯嶋かずみ様へ
はじめまして、このホームページの管理者です。
しばらくホームページを開いておらず、コメントに気が付かず申し訳ありません。再び見ていただければ幸いですが…。
さて、ご質問の武甕槌命と建借馬命との関係ですが、この両者をダイレクトに並べてしまうと、とても分かりづらいことになります。
何故なら、武甕槌神が鹿島神宮の御祭神として文献に現れるのは、中臣氏が鹿島神宮の管理氏族となってからの8世紀以降。比較的新しい時代の事だからです。
『常陸国風土記』には、武甕槌命という神名は、一切出てきません。
常陸国で奉斎されていた神は、「香島大神」でした。
すなわち、鹿島神宮(この名称もおそらく新しいもので、風土記に"大神の社"として出てくるのが、鹿島神宮の前身でしょう。)には「かしまの大神」がお祀りされていたのです。
そして、この「かしま」の語が「たけかしま」から取られているのだという考えがあるのです。
これには賛否両論あると思うのですが、私は賛成派です。
古代に茨城県東南部に移住した建借馬命の一行は、おそらく最新の道具や技術を以て、土地の開拓に当たったことでしょう。
時には、先住の民とのいざこざがあったでしょうが、概ねその高い技術は、土地の生産を躍進させて、人々の生活も向上し、結果的には「神のような人々が恵みをもたらしてくれた。」と受け取られ、時が経つとそれは伝説となり、神としてお祀りする…。
このような事が起こるのではないか?と思います。
実際、常陸国風土記では、降臨した大神はやがて鉄器や武具など、その頃の最新の道具類を人々に与え、再び昇天しました。
これこそ、上記のような史実が神話化したものではないでしょうか?
そして、この地に神の如くそれらの宝物をもたらしたのは、他でもない建借馬命率いる人達だったのです。
さて、大神の社はやがて鹿島神宮となり、御祭神も「香島大神」から「武甕槌神」に名前を変えましたが、私はこれを御祭神のすげ替えとは思っていません。
何故なら、多氏族の者の編纂に成る『古事記』に「建御雷神」の神名があるからです。
「武甕槌神」とは、元々の常陸国の神の奉斎氏族の思惑も考慮して、表向きに美々しく装いを新たにした御神名なのではと考えます。
従って、名前は変わろうとも、坐す神は建借馬命の神格化である「かしまの大神」に他ならないという思いで、私は神宮を参拝しています。
このような事を述べようと思い、「茨城県」の項目を設けましたが、最近作成が滞っておりました。
この返信を下地に、遅々とするともまた書いて行こうと思いますので、今後ともよろしくお願いいたしますm(__)m
飯嶋かずみ (金曜日, 13 7月 2018 10:57)
こんにちは。はじめまして。
突然のコメントで大変恐縮です。全くの勉強不足、見当違いな質問になってしまうのは重々承知ではありますが伺わせてください。武甕槌命と建借馬命の関係性(何らかのつながりはありますか)をご存知でしょうか。なかなか答えを見つけられず、こちらにたどり着きました。私にはまだ難しいですが、このページを一所懸命ポジティブに読ませていただきました。ありがとうございます。
寅 (金曜日, 12 1月 2018 21:02)
返事ありがとうございます。 私もコメント欄とかホームページのいろいろが分りません。
私の勝手な想像では、多氏は御間城姫の父の大彦の流れだと想像し、その祖は磯城県主大目、その祖は北海道~畿内~出雲などの大部族のクナトではないかと自論の想像をするのです。
多氏と関東の関係が分るといいなと思います。
想像ですから返事は考えなくていいです。
寅 (月曜日, 25 12月 2017 22:29)
始めまして、ブログを見てコメントするにクリックしても何も出ないのでこちらに来ました。
広島にも多家神社があります。平安時代には安芸国三社の名神大社であり、速谷神社、厳島神社、多家神社です。
広島に神武天皇が東征の折り阿岐国埃宮(えのみや)を行宮として駐留した場所に多家神社(たけじんじゃ)があります。
多氏は神武系なら九州基盤と思いますが、多氏が勝手に先祖が神武だと言ったのなら、どこが基盤か分りませんよね。私には分りません。
関東はクナト系の地だと私は思いますが、新勢力が畿内から進出してきたから、書き換えられていると私は思います。
私は広島だから関東の雰囲気が分りません。関東の史実が明らかになりますように!