千葉県成田市の麻賀多神社に伝わる縁起は幾つか存在します。1765年のものが最も長く、神代文字で書かれた本文が『印旛郡誌』に載っています。大正時代刊行のこの資料の特徴は、客観的な観点からの記述に努めながら、その中に徹底していない箇所が見受けられるところです。麻賀多神社縁起の記載部分には、特にそれが現れています。すなわち、公津村の項の中途の章にいきなり長文の神代文字が現れ、末尾に「太田家所蔵文書」とだけ書かれているものです。本来は「麻賀多神社宮司太田家」と書かれるべきであり、いつの如何なる謂れのある文章なのかが付記されるべきと思いますが、そうなっていません。しかし、かえってここに当時の意識のあり方が伺われ、書かれていない行間の情報とも言えるべきものがあるわけです。大正12年当時、麻賀多神社は、わざわざ子細を断るまでもないほどこの地域の中心的な存在だったということです。そういう意味で、『印旛郡誌』のこの部分は非常に重要な箇所であると言えます。(因みに中心的な神社の場所が住所で1番地となっているのが、他の地域でもよく見られます。台方の麻賀多神社の所在地は台方1番地ですので、そこにもそういった意識が現れているのだと思います。)※戦後の宗教的な整備による組織の大きな改変は、人々の意識にも変化をもたらしたのでしょう。僅か百年足らずの間にもこんなに変化する事があるのです。ましてや千年以上前のことがどれだけわかるのかと、古代史をやる者としてはつい思ってしまいますね…。その他の由緒についてはこちら

さて、1765年の縁起は、唯一日本武尊の記載があることが特徴です。『印旛郡誌』には、神代文字にカタカナが振ってありますので、それを元に意訳文を作ってみました。(わかりやすいように意訳してあります。よくわからなかった部分、又は文面通りにに書いた方が良いと思う語句は、そのままカタカナ書きにしてあります。また、間違えもあるかもしれません。あくまで参考ということでご了承ください。

 

まず、縁起の構成について説明します。

全体として、伊都許利命が語ったと言う形になっており、おおむね四段階に分かれています。最初は、『古事記』にあるようなヤマトタケルの話がかなり長く続きます。そして②,③段の末尾には、命もしくは神の言葉らしきものが添えられています。概要は次のようになります。

 ①土地の検分里長の語る日本武尊(小碓命)の話 ➡ ②神祀りと豊穣 ➡ ③我が子の病と神託 ➡ ④神託の内容

 

≪訳文≫

譽田の皇命の御代廿年、私はこの国にやってきました。処々を見て歩くとどうも土壌が悪く、 果たして作物がよく実っているのだろうかと案じて、里の長を呼んで問うてみることにしたのです。。

 里長の語るは、その昔の小碓の命の物語…

 景行天皇の皇子である小碓の命が、東国のまつろわぬ人らに、善きことを伝え共に力を合わせて国を作ろうと、この地にもやって来たのであった。その途上、小碓の命が海を渡ろうとした時、そこを守る渡りの神が波を起こしたので、船は漂うばかりで少しも前へ進まない。困り果てていると、妃のオトタチバナヒメが神を鎮めるために、命の身代わりとなって海へ入った。その時、モロノウネメという者も一緒に入水した。するとたちまち海は凪ぎ、命は無事に海を渡ることが出来たのだ。そこで、飛ぶように進む鳥船を集めて更に進もうとしたが、タチバナヒメと逢うことがもはや叶わなくなってしまった事が何とも悲しいのだった。そんな折、トミという者が、ヒメの遺品の御櫛を命に奉った。そこで、夕日の赤く照らす所を選んで塚を作らせ、御櫛を納め、気を取り直して其処より出立したのであった。

 さて、命の率いる船団がいよいよこの浦に入って来たが、その数の多いことと言ったら…。はるか遠くまで船で埋め尽くされてしまったので、「ああ、船の尾があんなに長いことよ!」とおっしゃった。

 また、命の船を山の麓に納めたので、山が船の形になった。これを船塚という。

 また、上陸して今来た船路を振り返ると、水鳥がたくさん集まって戯れていたので、「まるで旗に文様が描かれているようだ」とおっしゃった。そして、これは、神の御教えが顕れたのであると悦び、松杉の生い茂る山に登り、(木々が鬱蒼としてあまりに暗いので)「これは道暗山だ」と言いつつ、杉の木のうろに鏡を掛けて、伊勢大御神を拝まれた。

(もともと作物の出来の悪い地であったため)この鏡を崇め奉れば、米麦も自然によく実るであろうとおっしゃって、命はこの地を出立されたのである…

 

このような話を聞いた私は、昔日の命の教えに従ってその鏡を崇め奉っておりますと、本当にその通りになったので、この鏡を「印波国魂瀛(おきつ)鏡」として社殿を建て、天照稚日孁の大神と申し上げて斎き祀ることに致しました。すると不思議なことに、神の霊威によって甘き雨降り、甘き水の湧き出でたのでありましょうか、水田も棚田も日に日に拓けて、益々良い実りの地となったのです。里人は悦び、この神を益々敬い慕いました。

そうしているうち、私は夢に大御神様の教えを賜りました。大御神様の私に教えたもうた事には、「木の下に玉がある。掘り出して稚産霊命を祀れ」というものです。そこで、夢の教えのままに七つの玉を取り出して、麻賀多眞の大神として斎き祀ると、人民、土地はますます富み栄えたのでありました。

 (このような次第であるから)天地日月と共に常盤にこの社を守り給い、狭い国土も広くなり、苦難に満ちた国中も安心して暮らせるように、五穀も豊かに実るようにと、子孫代々に至っても祈り申せよ。        

 その後、更にこんな事もございました。やはり誉田の皇命の御代廿余り七年のことでございます。我が子浦長多津命が病に伏しました。私は、大神の大前に、昼は日の暮れるまで、夜は夜通し「病癒し給え、直し給え」と祈り申しました。するとある夜、夢の中で何か書き付けたように覚えてふと見ると、この文が手許にあったのです。これは、大御神がその御心で私に書かせてお教え下さったのだと嬉しく思い、文に書かれた通りにしてみると、不思議なことに我が子の病はすっかり治ってしまったのでありました。

 これは、多くの民を救った文である。このようにして、汝の子孫も、人民も共に救ってやれよ。

(さて、この文には、次のような事が記されていたのでございます。)

まず八方の事は、このように記すこととする。 天の真中を①、西北を②、北を③、東北を④、東を⑤、東南を⑥、南を⑦、西南を⑧、西を⑨と記す。天御中主神は①を主宰し、全ての人にナカハラの御魂を分けて下さる神である。高皇産霊神は、②を主宰し、全ての人にウワハラの御魂を分けて下さる神である。葦芽彦遅神は、③を主宰し、ソバハラの御魂を分けて下さる神である。玉留産霊神は、④を主宰し、天御中主神と共にナカハラの御魂を分けて下さる神である。生生(産?)霊神は、⑤を主宰し、キモの御魂を分けて下さる神である。足産霊神は、⑥を主宰し、イクムスヒの神と共にキモの御魂を分けて下さる神である。稚日霊神は、⑦を主宰し、オモイハカリの御魂を分けて下さる神である。神産霊神は、⑧を主宰し、天御中主神と共にナカハラの御魂を分けて下さる神である。稚産霊神は、⑨を主宰し、高皇産霊神と共にウワハラの御魂を分けて下さる神である。これら九柱の神々を年毎月毎に巡れば、ヒトトモニ多くのヨゴト(寿詞?)を授けて下さるのである。しかし、その巡りの方法を誤ったり、怠った時は、禍が起こるであろう。云々。 太田家所蔵文書

 

≪私見≫上記カタカナ太字の部分について ➡ ナカハラ=中原で「葦原の中国」という如く、地上のことなのではないか。ウワハラ=上原で中国に対する天上界ではないかと思っています。ソバハラについては、ちょっとわかりません。また、キモも難しかったのですが、「胆」なのでは?と思います。「胆」という字は、内臓のキモを表すばかりでなく、心、気力、魂などの意味があります。そこで、地上や天上の顕界に対する精神の世界及び幽冥界を言っているのではないかと考えました。参考として、香取神宮摂社の「膽男まもりお神社」を挙げたいと思います。「膽」は「胆」の旧字体です。ここのご祭神は大己貴命顕界と幽冥界の双方を主宰するという大物主神と同神とされる神です。また、膽男神社は、西方で香取神宮の参道を守る役割をしています。この神に対して「膽」の文字、そしてそれを「まもり」と読ませることは、誠に相応しいのではないでしょうか。この膽男神社の事を思い起こし、キモに上記のような意味を考えたのですがいかがでしょうか?

 

(最終編集日 2017.8月)

 

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