①「印波国の基本情報」では、当サイトにおける印波国の概念と印波国に関する基本資料の解説をしています。

②「印波国(遺跡、古墳、神社他)」では、印波国を知る上で知っておくべき遺跡などを挙げ、解説しています。取り上げるべき物は、まだまだありますが、構成の関係上、中心部にある代表的なものに絞りました。

③印旛沼周辺には、特徴的な分布を見せる三つの社があります。麻賀多神社20社、宗像神社13社、鳥見神社20社ですが、その解説とギャラリーを設けました。

④「総の国・常陸国」は、千葉県北部の印波国と最も関わりのある地域についての項目です。千葉県の東京湾岸、香取方面、茨城県東南部などを中心に取り上げます。

⑤「関連諸国」は、千葉県と茨城県以外で重要な地域の項目です。ただこれは、思いがけずもかなり広範にわたり、どこまでで切ればよいのか分からない状態となりました。大和地方、紀伊国、九州地方、東北南部は必至と思いますので、徐々に進めたいと思います。

⑤様々な事柄を総合して考察する事が大事ですので、「まとめておきたい事項」の欄を設けました。このホームページでは、極力客観的な情報の紹介を心がけていますが、この項目には多少大胆な私見も書かせていただくことになると思います。「とんでも説」のようなものも飛び出すかもしれませんが、情報の列挙と従来の見解の反復だけでは何も進展しないという考えから、このような欄を設けました。

 

  (2018年・1月)

⇓ 以下よりブログ及び次の項目の詳細をご覧いただけます。

香取神宮摂社・膽男神社

香取神宮摂社・膽男神社。膽男は「まもりお」と読み、香取神宮の旧参道の、西の守りを担う。旧参道とはすなわち、利根川から川に臨む鳥居をくぐり、神道山の脇を抜け神宮へと向かう道である。 ご祭神は大己貴命で、大和は三輪山に坐して顕界から幽冥界を遍く主宰するという大物主神と同神ともされている神。

この神を祀る社の名に「膽」という文字が使われていることに、非常に深淵な意味を感じはしないだろうか。なぜなら、「膽」は「胆」の旧体字で、内臓の胆を表すばかりでなく、“心”“霊魂”“気力”などの内面的なものも表す字なのである。

顕界と幽冥界とは、言い換えれば肉体と精神、または意識と無意識であり、「膽」こそはまさにその両極を表現していると言える。大己貴神及び大物主神の神格にこんなに相応しい文字はない。表面だけでなく内からも守って下さる神様を、先人は参道の西の守りとした。そして、それを本来の読みではない「まもり」と読ませたことにも感心してしまう。

器用で柔軟、悪く言えば何でもありの日本語ならではの使用例とも言える。(成田市の麻賀多神社の由緒書きに 「キモ」という言葉が使われており、長らく意味を量りかねていたのだが、この「膽男神社」の「膽」の文字から、「キモ」は上記のような意味なのではないかと思うに至った。)麻賀多神社由緒についてはこちら

 

因みに、東の守りは「忍男神社」。ご祭神は忍男命ではなく、伊弉諾命。

 

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香取神宮摂社・忍男神社

香取神宮旧参道の東の守りが忍男神社である。旧参道とは、津宮の利根川に臨む鳥居をくぐり、神道山の脇を抜けて神宮へ向かう道である。ご祭神は伊弉諾命。社名から、忍男命を祀るのかと思いきや、御父君の伊弉諾命であった。知名度からの選択であろうか?西の守りの膽男神社のご祭神(大己貴命)に対し、なぜ守りとしておかれているのか、自分としては今一つイメージが湧かないご祭神ではある。

しかし場所的には、現在神社の真ん前を舗装道路が通り、そこを進むとすぐにJRの踏切、赤い欄干の橋を渡ると神道山へ至る。

通過点の辻にあって、通る者に目を光らせるのには好立地といえる場所に鎮座する。

 

神道山古墳群を有し、香取神宮に関わった人々の奥津城であろうと言われている。

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香取神宮末社・沖宮神社

沖宮神社は、香取神宮旧参道東の守りである忍男神社のすぐ近くに鎮座する。ご祭神は綿津見神。こじんまりとした敷地である。

 現利根川はかつては香取海と呼ばれ、太平洋に繋がる海であった。香取市津宮の利根川べりにある大鳥居は、海に臨む神門であったのだ。香取の神は、海より来たった。参道に海の神が鎮座する所以がここにある。

 何故かこの社の周囲だけバナナの木が植えられて、突然のプチ南国情緒。小さいながら、なかなか印象深い社であった。

追記・バナナの木と思ったが、芭蕉の木かもしれない。どちらにしてもバナナ科の木で、小さいバナナのような実が成るようだ。

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総の国の大くすのき

風土記は、残念ながら、上総国下総国も残っていません。

しかし、たった数行の“クスノキ”の記述が残されました。

万葉集の注釈書に、逸文として残っていたのです。

…昔、総の国にとても大きなくすのきが生えた。

都では、それを凶兆だとして、切り倒した。

倒れたくすのきの上の枝が上総となり、下の枝が下総となった…。

こんな話です。

短くも、なんと象徴的な物語でしょうか!

房総半島の、上代からおそらく奈良時代の頃までの様相を

これほど端的に表したものはないと思います。

これを具体的な出来事に当てはめてみると、

より古い時代では、海上の一族

房総半島を横断するように、

一大国を成していたと言われます。

その後、現在の山武市辺りに武射国造が、

印旛沼周辺に印波国造が進出し、分断されたと…。

 

その次の時代に分断されたのは、

多の一族ではないでしょうか?

印波国の領域は、東京湾岸よりも

茨城県東南部に近い文化圏だと思われますが、

当然、湾岸諸国ともつながりがあります。

『国造本紀』の国造の出自では、

湾岸の国造の初祖が、多氏族の祖と言われる

神八井耳命ではないけれども、

様々な資料を突き合わせると、

結局のところ、房の国の国造は皆

近い関係にあり、

それはまた、常陸の那賀国造や茨城国造とも

近しいということになるのです。

 (詳しい説明はここでは省きます。)

すなわち、ある時期には

房総半島のみならず、茨城県東部から

房総の東京湾岸のかけての広い地域を

多の氏族が支配していたのだと思われます。

 

しかしその支配体制は、745年律令制施行後

急速に突き崩されていったのです。

房総半島は上と下に分断され、そのまた下の

郡単位でも分裂がありました。

おそらく、勢力を拡散するために

中央からの働きかけがあったのだろうとされます。

 

因みに、東国に国司が派遣されたのは、

実に大化の改新のその年の事でした。

少しでも放っておけば、再び大勢力になりかねない

と危惧されるほどの力を、

東国の豪族は持っていた事が分かります。

 

大くすのきは、まさにこれらの事を

表しているのではないか?

“凶兆”と、はっきり書かれているのも

注目されます。

何故なら、この様な通常でないものの出現は、

しばしば吉兆として扱われ

記念として、改元がされることもよくあるからです。

しかしその中で、「総の大くすのき」は、凶兆とされたのです。

 

本当に風土記のこの部分が、

よくぞ残ってくれたと思います。

何者かの意志がそうさせたのではないかとまで

思ってしまいます。

また、常陸国風土記が、ほぼ完形で残ってくれたのも

幸いでした。

それを元に、下総国でもほぼ同じことがおこったであろう

と言う予測が出来るのです。

 

かつて、列島東端の地に高々とそびえ、

空を覆っていたであろう巨大なくすのきが

目に浮かびます。

 

※因みに、多氏族の出である伊都許利命が創建した

麻賀多神社では、現在幼稚園を経営していますが、

名前に「くすのき」と付けています。

神社の御神木は杉なので、

どうしてだろうと思っていましたが、

この風土記逸文の事を知り

合点がいきました。

 

 

 

 

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